第1章 接吻(50%)



 ドックンドキドックンドキドキ・・・・・・


部屋の中いっぱいに響いている音は僕の心臓の音です。
昼は大学に通いながら、夜はMILKYPUBで働く生活が早くも1年を過ぎ
ようとしています。(一年前の話は「めぐみ18歳の夏」を読んでください)

「はぁ〜」

目の前にはミネラルウォーターのペットボトルと赤い錠剤が置かれていました。
この赤い錠剤はプレマリン(0.625r)という女性ホルモン剤です。

いつものように大学の講義を聴き終えてからパブに出勤すると、先輩の愛さん
が僕を待っていました。19歳の誕生日にと、この赤いプレゼントを手渡され
たのです。愛さんの話では、女性ホルモンを始めるなら二十歳前の方が効果的
だそうです。成長期が終わる前、男性としての骨格が形成され終わる前に女性
ホルモンを投与することにより、より男性化を防ぎ、女性化を促進するのだそ
うです。

 ドックンドキドックンドキドキ・・・・・・

僕は1錠だけ手の平にのせると口の中に放り込み、ミネラルウォータで一気に
胃袋の中に流し込みました。

「・・・・」
(なにも変わらない?)

昔、リバイバル番組で手塚治先生のアニメ「メルモちゃん」を見たのですが、
その中で主人公の身体はみるみる変化していました。僕の身体にはなんの変化
もすぐには現れませんでしたが、僕の中で何かが変わったような気もします。

精神的なものが「僕」から「あたし」へと変わったのかも知れません。全身が
ポカポカと火照っていました。

「めぐみちゃん!お店を開けるわよ〜!早くいらっしゃい!」
愛さんの僕を呼ぶ声が聞こえて来ました。

「はい。今、行きます」
僕は急いで、お店での衣装に着替え、いつもと少し違って見えるドアを開けて
みんなの待つフロアーに向かいました。

「ちゃんと飲んだ?」
愛さんに聞かれて僕は黙って頷きました。

「うん、めぐみは素直で良い子ね。ちゃんと飲むのよ」
「・・・はい」


その日は「あっ」と言うまに夜の11時になってしまいました。もっとも、大
学での講義は永遠とも思えるように長いのですが、アルバイトの時間はいつも
短く感じます。もともと、この世界の仕事が僕には向いているのでしょうか?

初めて飲んだホルモン錠剤は、仕事中ずっと僕の想像を掻き立てていたのです。
胸はFカップ、股間には男性のシンボルは無く女性の性器が存在するのでした。
もっとも、女性ホルモンを摂取するだけで、そんなことになるわけはありませ
ん。それでも、すっかり女の身体になった自分を想像する起爆剤とはなってい
ました。

「うぐっ」
「めぐちゃんどうかしたの?」

声を掛けて来たのは砂田義彦さんでした。入店当時から僕に目を掛けてくれて
いる常連客さんです。

「うーん、ちょっと・・」
「顔色が良くないよ?」
「ちょっと気持ち悪く・・・なって、吐き気が・・」

愛さんが隣で僕の表情を見て笑っていました。

「呑み過ぎかなぁ?」
砂田さんが心配そうに僕を気遣ってくれます。

「えー、これウーロン茶(笑)」
「じゃ、風邪でも引いた?」
「ううん、違うと思う・・・」

初めて飲んだプレマリンは、目で見える身体的な変化を起すほどではなかった
のですが、少なからず僕の体に影響を与えていることを実感しました。先程か
ら吐き気が僕に取り付いたのです。一粒の錠剤が溶けて僕を変え始めたのでし
た。

「今日は帰った方がいいよ。送っていこうか?」
「えっ?本当〜?、ありがとうございます」
「うん、そうしよう」

水商売のアルバイトをはじめて、僕は甘えるのが上手くなった気がします。以
前の僕は甘えることは堕落に繋がると自分の中で思い込み、人の親切を拒絶し
ていたのです。しかし、女の子として1年間生活しているうちにすっかり甘え
上手になったようでした。



店を出たのは深夜0時を過ぎていました。店からタクシーを呼び、僕と砂田さ
んと車に乗り込んだのです。

「遅くなっちゃたね」
「そうですね」

「砂田さん、明日は会社、休みですか?」
「一応、週休二日制だからね」

明日(今日か)は土曜日でした。

「めぐみちゃんは、大学でしょ?」
「はい。でも、講義は午後からですから午前中は爆睡してます」
「そうか。授業中はしっかり起きてるんだー」
「あは、講義中は爆睡じゃなくてウトウトです。笑」
「でも、昼間は学生で夜はバイトじゃ大変だね」
「万年寝不足ですよ。でもバイトも楽しいですから」
「そうか、それは良かった」

確かにお水の仕事は嫌いではありませんでした。しかし、バイトを続けている
には金銭的な理由もありました。女の子として生活するには化粧品や洋服にお
金が思ったよりかかるのです。姉は保険会社に勤務していますが、女の初任給
はとても安いようで、僕の小遣いまでは回ってきません。必然的に僕自身の嗜
好品代くらいは稼ぐ必要があったのです。もっとも、我慢すれば両親からの仕
送りで暮して行けないことはなかったのですが、つい可愛い服などを見つける
と買ってしまうのでした。

「あっ、そこを右に曲がってください」

タクシーは静かな住宅街の交差点を右に曲がった。

「来週はめぐみちゃんの誕生日だよね?」
「えっ、覚えてくれてたんですか?」
「もちろんだよ。来週は出張でヨーロッパに行くんでお店には行けないんだ、
 で、ちょっと早いけど」
「なんですか?」

砂田さんは持っていたビジネスバックからリボンに包まれた小さな箱を取り出
しました。

「気に入ってもらえるかな、誕生日のプレゼントにと思って」
「どうもありがとうございます」
「開けて」

僕は言われるままに、丁寧にリボンを外し、破れないよう包み紙を取りました。
ケースを開けるとそこにはカルティエの時計があったのです。ピンクゴールド
とイエローゴールドのコンビネーション、惜しげもなくあしらわれたダイヤモ
ンドの輝きはジュエリーのような美しさです。

「えっ、これ・・・カルティエですよね」
「一応、本物だからね。笑」
「こんな・・・高いもの・・・」

どう考えても、30万円以上はする品物です。

「すぐに質屋に持って行かないでくれよ(笑)」
「そんなことしません。大事に使わせて頂きます、ありがとうございます」
「お店で渡そうと思ったんだけど、皆の前じゃ、冷やかされるからね」
「本当にありがとう。でも、なんのお礼をしたらいいのか・・・」
「・・・・」
「こんな高価なもの頂いたの初めて」
「貸してごらん、腕に嵌めてあげよう」

僕は手にしたカルティエの時計を砂田さんに渡して自ら左手を差し出しました。
砂田さんは僕の手を優しくとって、ダイヤモンドの散りばめられた時計を手首
に付けてくれたのでした。

「とてもよく似合うよ」
「ちょっと、不釣合いかも知れませんね・・・」
「そんなことないよ」

しばらく、僕の手を取って眺めていた砂田さんが、突然、僕の腕を自分の方へ
と引き寄せたのです。

「えっ?」

僕はタクシーの揺れも手伝って砂田さんに倒れ掛かってしまったのです。抱き
寄せられた僕の目の前には砂田さんの顔がありました。

「いいだろ?」
「だ・・」

僕の返答を砂田さんの口が塞いでしまったのです。

「うぐぅ・・」

離れようとしましたが、力強い腕で覆い被さるように僕は抱き寄せられ、逃げ
る場所を失ってしまいました。いつのまにか僕は目を閉じ全身の力を抜き、砂
田さんに身を任せていたのです。
一瞬のことだったのですが僕にはとても長いことのように感じられました。
今日、初めて飲んだ女性ホルモンが効いていたのでしょうか?女としての「あ
たし」がそこには存在していたのです。

「また・・・お店に行ってもいいかな?」
「はい、もちろんです」

僕の腿の上に置かれた砂田さんの手を包むように両手で添えながら僕は返事を
しました。

この日から三日間、軽い吐き気が僕を悩ませていました。それでも僕は愛さん
に言われた通りプレマリンを飲み続けたのです。身体の内からの変化を実感し
ながら・・・・