第壱章 プロローグ(古代神事能の伝承)


  少し汗ばむ初夏、郊外に建てられた広いキャンパスでは木々の緑が光の中で輝いていた。
八雲裕紀の心も1年の長い浪人生活から解き放たれ希望に満ち溢れていた。もっとも暗い人
生は裕紀の主義に反するのでそれなりの息抜きはしていたのだろう。したがって、やっと入
学出来た大学だが世間の評価では一流どころか二流にも入っておらず、将来の人生設計が希
望に満ち溢れているとは決して言えないだろう。それでも、これから始まる4年間のことを
考えると裕紀の心は希望に輝いていたのだ。

しかし、入学して3ヶ月が過ぎキャンパスのあちらこちらでカップルが目に付くようになっ
て来たにも関わらず、裕紀の周りにはいつも親友の岡本太一と橋本浩介がいた。女性の影も
形も見えないのだ。(早く彼女を見つけないと暗い4年間を送る事になってしまう。これか
ら夏休みに突入しようというのに、なんで男3人で旅行の計画を立てなくてはいけないんだ
なんとかしなくては!!)などと裕紀は考えていた。

「おい!八雲、聞いているのか?」
突然、思考に割り込んで来たのは、岡本だった。クラスが同じでたまたま席が隣り合わせだ
ったことから一緒にいるようになったのだが、どちらかといえば彼は体育系で裕紀とは目指
しているものが違うようである。高校時代は柔道でインターハイの準決勝までいった程の強
さで彼の事を知っている人も多いらしい。大学でも勉強よりスポーツに明け暮れている。も
っとも、裕紀にしても勉学に励もうと思っているわけではないのだが、スポーツに打ち込む
ことは絶対にありえないと思っている。その横にいるのは橋本で岡本とは正反対のガリ勉タ
イプである。彼とは試験の時にノートをコピーさせて貰ってからの付き合いだ。

「ああぁ、聞いてるよ、でも東北かぁ?夏なんだから海外にでも行かないか?」
裕紀は橋本を味方に付けるべく同意を求めたのだが見事に期待を裏切られてしまった。彼は
出身が九州だという事もあって、こちらに居るうちに一度は東北へ行きたいとの事だった。
結局、形だけでも民主主義国家である日本では多数決により夏休みの行動が決定されてしま
ったのである。裕紀はグァム島の水着ギャルを諦め、彼らに自分の運命を任せることにした。
そう思うと裕紀は旅行話には上の空でサンサンと降り注ぐ太陽の光を浴びたキャンパスを眺
めていたのだ。木々や建物、キャンパスを行き交う人々までもがキラキラと輝いている。
「あれ?」
ふと気が付くとその中に一個所、自ら輝きを発している所があるではないか、目を凝らすと
それは紛れもなく人間であった。
「八雲!どうかしたか?」
一点を見つめている裕紀を不思議に思ったのか岡本も彼の視線を追った。
「彼女か。同じクラスだよな。確か名前は神野美佳って言ったかなぁ?おとなしい感じだけ
  ど遊んでいるって噂だよ。もしかして八雲のタイプか?でも彼氏が居るみたいだよ。あれ
  だけ可愛いと先輩がアプローチしないわけないしね。彼氏が居ない方が不思議かもしれな
  いな」
「あんな娘、同じクラスに居たのかぁ?なんで気が付かなかったのだろう」


美佳は視線を感じて足を止めた。大学に入ると同時に東京に出て来て、今は大学から10分
のアパートに一人で暮らしている。上京する時は都会の生活に一抹の不安も感じていたのだ
が、今は生活にも慣れ友達も出来て大学生活をエンジョイしていた。
「美佳!どうしたの?早く!」
美佳は友達の真奈美に呼ばれ、急いで学食へと向かった。
「今日は何にする?」
真奈美はカンウターの上に掲げられた、いつものメニューを見ながらそれとなく聞く。
「私はラーメンと餃子にしようっと」
幸子が言うと美佳と真奈美も暗黙のうちにそれに従い列の後尾に並んだ。
「美佳?さっきはどうかしたの?」
「なんだか人に見られてるみたいな気がして・・・」
「あぁ、それって良くあるわよね、特に欲求不満の時とか(笑)。美佳も早く彼氏を見つけ
  ないと暗い4年間を送ることになっちゃうわよ」
3人はラーメン餃子を受け取り窓際の空いているテーブルに向かった。

「夏休みどうする?私の友達がグァムのチケットを手配してくれるって言うんだけど」
真奈美が話を始めた。
「友達って彼氏じゃないの?」
「彼が旅行に行こうって言うんだけど、まだ二人きりじゃね。」
「彼の友達も来るって言うから美佳も行かない?」
「なんだか、数合わせのような気もするけど私が付き合ってあげよう」
幸子が手を上げ参加表明をしたのである。
「あなたは彼氏がいるでしょ?彼はどうするのよ」
幸子を窘めるのだが、美佳が夏休みは山形の実家へ帰らなければならない事を知ると手の平
を返したように真奈美は幸子の同伴を認め、メンバーはあっけなく決まってしまった。2人
が旅行の計画を練っている間、美佳は光の輝くキャンパスをなんとなく眺めていた。
「なんだろう?あの光は・・・」




上越新幹線で新潟まで2時間10分、そこから羽越本線で2時間、裕紀は今、鶴岡にいる。
(鶴岡は藩政時代からの文化遺産が多く。江戸と明治、仏教とカトリックが融合した薫り高
い文化の町でそんな史跡を探訪するのが楽しい)裕紀は1人、本屋で観光案内を立ち読みし
ているのである。岡本と橋本と裕紀は3人で東北の山形まで旅行に来ていたのだが、ここ鶴
岡で彼は岡本らと剥ぐれてしまったのだ。グァム島旅行の計画が却下された時点で裕紀は彼
らに計画の全てを任せていた。付録のように付いて来ただけの裕紀は旅行の行動予定を全く
把握しておらず、宿泊場所すら聞いていなかったのだ。もっとも男3人旅なので宿を手配し
ていたかどうかも定かではないのだが。呆然としていても拉致があかないので自力で観光周
りをしようと鶴岡の本屋で研究をしている最中なのである。
「出羽三山だったかなぁ?」
頭の片隅にチリのごとく残っている彼らの会話を思い出していた。この本によれば有名な観
光名所であるらしいので、とりあえず行ってみることにした。裕紀がバス亭で時刻表を調べ
買ったばかりの観光案内を読んでいると、突然・・・・
「こんにちわぁ」
振り向くとそこには髪をポニーテールにまとめたジーンズにTシャツ姿の神野美佳が黒い大
きな瞳で裕紀の観光案内を覗き込むように立っているのだ。
「何を読んでるの?」
彼女は大学のキャンパスにでも居るかのように話しかけてくる。
「どうして君がここに?」
彼女の質問には答えず裕紀は疑問を投げかけた。
「びっくりした?後をつけてきたのよ!」
少しふざけた顔で彼女は笑った。本当のところは彼女の実家が櫛引町というところで夏休み
を利用し帰省して来たのだ。彼女もこんな所でクラスメートに合うとは思わず、驚いてたよ
うだ。裕紀が2人と剥ぐれてしまい途方に暮れている事を知ると彼女は櫛引町に来ないかと
薦める。彼女の説明では櫛引町には室町時代から伝わる黒川能という古代神事能があるそう
で、今では国際的にも有名で国の重要無形文化財に指定されているらしい。
「私の家は汚いところだけど広いから八雲さんの1人や2人、十分泊れるから」
と付け加えたのだ。裕紀にとって美佳の提案は悩み事を2つも同時に解決してくれる申し出
であった。裕紀は断る理由もなく2つ返事で同行することにした。

バスを降りると60歳前後の老人が彼女を迎えに来ていた。代々神野家に使える使用人だそ
うで彼女が経緯を説明すると訝しげな顔をして裕紀の体を嘗め回した。
「ようこそいらっしゃいました。」
取って付けたように一言いうと老人は彼女の荷物を受け取り先を歩きだした。
「のこのこ付いて来て良かったのかなぁ?勘違いされたかもしれないな」
老人の態度に気後れした裕紀は小声で美佳に念を押した。
「勘違いされても私は構わないわよ(笑)」
とあっけらかんとしているのだ。20分程歩くとそこは神野家であった。田舎の庄屋のよう
なものを想像していたのだが立派な門構えに整った庭、池まであって値段はわからないが高
そうな鯉まで泳いでいる。彼女の家は黒川能が表の能だとすると裏の能にあたる神山能伝承
の家系で真の神事を司っているらしい。血を継ぐ人にも不思議な力が受け継がれているそう
だ。今でいう超能力みたいなものらしいが代によって能力は違うとのことだった。
「美佳も能力があるのか?」
「少しね」「美人に変身できるの」「ほら!」
美佳はニッコリ笑ってこれが私の能力よ。と裕紀をからかうのである。
「あのねー!(笑)」

その日は能楽堂のような伝習館を見学するだけで彼女の家に戻ることにした。明日、彼女の
案内で朝から出羽三山に出掛けることにしたのだ。早い夕食を彼女の両親と一緒に取り大学
での話や裕紀自身の話など尋ねられる事にいろいろ答えていた。娘が自分の監督下から放れ
都会の生活をはじめた事が田舎に住む美佳の両親には心配なのであろう。泊り賃だと思えば
安いものだ。会話を続けていると
「ご両親は納得してるのですか?」
突然、意味不明な質問が投げかけられた。僕が首を傾げていると彼女が横から
「ちがうのよ!」
いつになく真剣に否定したのでかえって気になり真意を確認する事にした。話を聞いて裕紀
は唖然としてしまった。お父さんの言うには神山能の継承者は男性でなくてはならないらし
い。はじめは美佳の御両親が裕紀を美佳の結婚相手と間違えてこの家を継承するのだと勘違
いしたと思ったのだがどうも違うらしい。継承者は精神的血を引いてなくてはならず美佳本
人でなければならないとのことなのだ。すなわち、女性である美佳は20歳までに男性の代
体を探して精神を入れ替え男性にならなければないらしい。成功しなかった場合、彼女は体
と精神が遊離してしまい肉体は滅び精神はこの世を永久にさ迷うらしい。代体する男性も誰
でも良いわけではないらしい。霊波の相性というのがあってそれが合致しなくては代体とは
なり得ないのだ。相性の合った霊波を持つ男性の存在は希であり残された1年間でに見つか
る可能性は非常に少ないとのことだった。迷信ですよね。と言おうと思ったのだが真剣なご
両親の眼差しを見るとそれ以上尋ねることが出来なかった。隣にいた美佳までが悲しげに下
を向いてしまっているのだ。


夜中に目を覚ますと見知らぬ天井が目に入ってきた、ここは神野家だった。昨日は美佳の家
に泊めて貰ったのだが、いつもより早く寝た為にこんな時間に目が覚めてしまったようだ。
裕紀は昨晩の妙な話の事を思い出していた。
(冗談でも言ってるのならともかく顔が真剣だった。美佳まで悲しそうな顔をしているし、
  この家の人々は皆信じ込んでしまっているようだ。明日は早く旅立つことにしよう)
時間が気になり寝る前に枕元に置いた自分の腕時計を見ようと寝返りをうって時計をとり眺
めると暗くてよく見えないが、まだ12時だった。
「あれっ?」
胸のあたりが枕にぶつかり違和感がある。恐る恐る、腕時計をもとの位置に置いて胸に手を
やると胸の辺りに弾力性のある膨らみが肌蹴た浴衣から垂れ下がっているではないか。
「なっなんだ?」
裕紀は部屋の電気を点けて布団の上に座り、肌蹴た浴衣の合わせを開いて覗き込んだ。彼の
胸には紛れもない女性のバストがそこにあった、その先にはピンク色の男性の物より明らか
に大きめの乳首がそれぞれついているのだ。彼は恐る恐るバストの先にある乳首を摘まんで
みた。それは確かに彼自身のものとして大脳と神経が繋がっていた。頭が混乱していると急
にトイレに行きたくなって来たのだが、不安が沸いてきた。
(もしかしてオチンチンは?)
今度は浴衣の裾を肌蹴てトランクスを覗き込んだ。
「無い!!」





「八雲さん!、起きています?」
美佳の呼ぶ声で裕紀は目を覚ました。昨晩の妙な話に刺激されて変な夢を見ていたのであろ
う。自分の股間に手をやり男性の物が付いている事を確認するとホッとして胸を撫で下ろし
た。
「あぁ、起きてるよ」「どうかした?」
美佳は障子を開けて入って来たかと思うと突然頭を下げた。
「お願い。一度だけ体を入れ替えて、祖父が急に倒れたんです。」
彼女は真剣に懇願するのだが話がよくわからない。やっとの事で美佳を落ち着かせて事情を
聞いたのだが、どうやら美佳には昔から可愛がって貰っていた祖父がいて病気で床に伏せっ
ていたらしい。そしてその祖父の望みというのが死ぬ前に一度だけでも一人前となった美佳
の能舞を見ることだそうなのだ。しかし、一人前というのが曲者で、男性になってというこ
とらしい。(また、昨日の続きか)と思いながらも泊めてもらている事もあって素っ気無く
も出来ず。何をしたら良いのか判らないまま美佳の気迫に押されて承諾したのだった。
(本当に信じているのかなぁ?ここの人達は・・・)
「僕で出来ることなら協力するよ」
「ありがとう、一生恩にきるから」
美佳は喜びを身体全体で表現すると裕紀を急ぎ奥へと案内した。

奥の座敷は20畳ほどの広間になっており中庭との境である障子は全て開けられていた。そ
して中庭には能の舞台が設置されていた。美佳は広間の中央に敷かれた寝床に近寄り語り掛
ける。
「おじいちゃん、今、見せるからね」
寝床からは聞き取れない擦れた声が漏れてくる。
「八雲さん、お願いします。」
「僕は何をすれば良いんだ?」
「念じて下さい、あなたの体が私の体であるかのように」
裕紀はどう念じれば良いのか理解出来なかったのだが先ほど見た夢の事を考えて見た。する
と目の前がフラッシュの光のように発光しだしたと思うと目の前の光景が光に合わせ変化し
だしたのだ。それは裕紀の視野と美佳の視野が交互に映し出されたものである。丁度、美佳
の視野で風景が固定されると同時に裕紀は気を失ってしまったのだ。
どれだけの時間が経ったのだろか、裕紀が気が付くと舞台の上で能が舞われていた。凛々し
い男性の舞である。良く見るとそこで舞っているのは彼自身ではないか。(じゃ、ここにい
る自分は誰なんだ?)

白く小さいな手に細い腕、小柄で痩せてはいるのだが胸と腰はTシャツとジーンズの上から
もわかるような、ふっくらとした曲線を描いている。先ほどまで目の前に居た美佳がここに
居るのだ。今、裕紀はこの家の人々の言っていたことが真実であることを身をもって体験さ
せられていることに気が付いた。(これも夢なのだろうか?)夢ではなかった。いつまで経
っても胸の膨らみは無くならないし、目の前では自分自身が舞続けているのだ。30分程し
て舞は終わり舞台の上の裕紀は柱の影に消えていった。すると突然、寝ていた老人が跳ね起
きたのだ。
「ほーっ、立派なものじゃ。これで神山能も安泰じゃ」
老人は裕紀を振り返り丁重にお礼を言った。
「わしからも礼をいうぞ!」
「部屋に帰ってゆっくりしてくだされ」
裕紀はわけがわからず肯いてみたものの、少し不安になって来たので尋ねた。
「美佳さんはどちらですか?身体を元に戻さないと」
「うん?今日からその身体がおぬしの体じゃよ?大切に扱ってくれよ」
老人はあっさり答えるではないか。騙された事に気付いた裕紀は自分の身体を取り戻すべく老
人に迫った。
「ちょっと待って下さいよ!」
ドスを効かせて威嚇したつもりなのだが声のトーンが高く、まるでさまになっていない。
「だれかお客様をたのむ」
「かしこまりました」
老人が誰とは無く指図すると昼間バス停まで美佳を迎えに来ていた使用人が出て来て裕紀を羽
交い締めにしたのだ。あの時は弱々しく思えた老人であったが、今は裕紀より少し背が高く強
靭に見える。事実、いくら彼が抗っても老人の腕から逃れられないのだ。終いには抵抗する力
も失せてしまった。それを確認した寝床の上の老人は裕紀に向かって告げた。
「3日もすれば精神が今の身体に定着し元の身体には戻れなくなる」
「もっとも、戻りたくもなくなるからそれまでの辛抱じゃよ」
裕紀は美佳が現れる事を期待して彼女の名前を叫んだのだが一向に姿を見せる気配はなかった。
大きな声で呼べば呼ぶ程その声が美佳の声である事に自分が美佳ではないかと錯覚しだした裕
紀は美佳の名前を呼ぶのをやめていた。


納戸のようなところに閉じ込められてから何時間が経ったのだろうか、腕時計を枕元に置いて
来てしまったので時計が無く全く時間がわからない。もっとも腕時計をしていたとしてもこの
細い手首にでは無い事に気付いた裕紀は急におかしくなってしまった。
高いところにある小窓から朝日が一筋り線となって差し込み、鳥の囀りが聞こえて来た。結局、
裕紀は朝まで一睡も眠ることが出来なかったのだ。(一層、眠っていたら目が覚めた時にこれ
は全て夢だった事になったかもしれない)夜中はずっと、あの小窓から逃げようとなんども飛
びついてみたのだが、後一歩の所で届かないのである。昔の裕紀であれば軽く届いたはずなの
に美佳の身体である彼は身長が低くなっており届きそうにない高さなのである。実は一度だけ
なんとかぶら下がったのだが努力もそこまでであった、ぶら下がるのが精一杯でよじ登る事が
出来なかったのである。そんな事をしている間に体力を使い果たしてしまった裕紀は半ば諦め
かけていた。
その時、扉の鍵を外す音がしたと思うと昨夜、裕紀を取り押さえた使用人の老人が食事を持っ
て入ってきたのだ。裕紀は最後の力を振り絞りその老人を突き飛ばした。老人は大きくよろけ
て食事を巻き散らかした。裕紀は押し倒すつもりで体当たりしたのだがよろけるだけで転倒に
は至らなかったのだ。しかし、その隙に外に出、ドアを閉め鍵をかけることに成功したのだ。
(やったー!)その時、後ろから影が近づいて来た。振り返るとそこには裕紀の身体をした美
佳がいた。(こんなに大きかったかぁ?)押しのけて逃げようとしたのだがピクリともしない。
大きな腕が裕紀の小さな身体を押え込もうとする。腕の中で髪を振り乱して暴れるのだが、突
然、大きな手の平が裕紀の白い透明な頬を叩いた。その瞬間、裕紀は全身から力が抜けてしま
っい勢い良く逃れようと動いていた身体は停止してしまい立っているのが精一杯となった。
「おとなしくして!」
「今から元に戻すから昨晩と同じように念じて」
美佳は裕紀に向かって駄々を捏ねる子供を叱るように指示する。美佳は昨夜の計略に関わって
いなかったようだ。やっと状況を理解した裕紀も目を閉じて念じた。しかし、昨日のようなフ
ラッシュが起きないのだ。

「八雲さん、どうしたの?ちゃんと念じてよ」
叱られる裕紀ではあったが彼自身もどうしたのかわからない、念じているつもりなのだ。不安
が彼を包んでいた。(もう、元に戻れなくなってしまったのだろうか?)女性の身体になって
いるからなのか気弱になった裕紀の黒い大きな瞳から急に涙が溢れ出てしまった。
「泣いている場合じゃないわよ」
再び念じるように裕紀に指示し美佳は目を閉じる。その時、納戸の中の使用人の声を聞きつけ
たのか遠から人が近づいて来る気配がする。
「とにかくここを離れましょう」
裕紀の手を引っ張り声とは反対の方向に美佳は走ったのだ。裕紀はその身体を引きづられるよ
うに後に続いた。(こんなに男の僕は力強く頼もしかったのか)と思いながら・・・


裕紀を安全なところまで連れて来ると美佳(姿は裕紀だが)は着替えやお金を取ってくるとい
って家に戻った。しばらくその場で待っていた裕紀であるが利尿を感じて来たのだ。考えて見
ると昨日の食事の後からずっとしていないのである。もっとも美佳が食事の後、寝る前にトイ
レに行ったかどうかは知らないわけだが少なくとも昨夜の能舞の時、すなわち裕紀が美佳の身
体になってからはしていないのであるから利尿をもよおすのも当然のことであろう。裕紀は適
当な物陰を探しジーンズのチャックを降ろした。しかし、男なら有るべきところに有るべきモ
ノが無かったのだ。冷静に考えれば状況からして当然のことなのだが、その時の裕紀は気が動
転していた。排尿出来ると思った大脳は膀胱に司令を出した後であり、ここはジーンズを降ろ
してお尻を丸出しにするには不適切な場所なのだ。正面は隠れているのだが後ろは丸見えにな
ってしまっている。やっとの思いで適切な場所を探し当てなんとかお漏らしはしないで済んだ
のだがどこに出るかがわからず少しジーンズの裾を濡らしてしまった。おまけに男性と違って
一度出だしたら止まらないではないか。

その時、少し離れたところで裕紀を呼ぶ声がした。物陰から裕紀が出て行くとそこにはパジェ
ロが止まっていた。美佳が運転席から彼を手招きしている。急いで助手席に乗るとパジェロは
勢い良くスタートしたのだ。
「どこに行っていたの?」
「ちょっと・・・」
裕紀は話を逸らした
「こんなにパジェロって大きかったかなぁ?、いつも運転しているの?」
「私の車は軽自動車なんですが、乗ったら運転席が狭かったからコッチを借りてきちゃった!」
「逃亡者みたいでスリルがあるわね」
美佳は楽天的な事を言っている。いつもの美佳ではあるのだが身体と声は僕のものであるから
女言葉が気持ち悪い。
「美佳、人前で話をするなよ!気持ち悪いオカマだと思われるから」
「裕紀も女らしく話してよ。雑な女だと思われるじゃないの」
「おい、またオカマ言葉になっている・・・わよ」
変なカップルは櫛引町を後にしていた。