本  「イン・ザ・ミソスープ」 村上龍
 

村上龍の「イン ザ・ミソスープ」(97年刊)という、なかなかハードな小説、題材の異常さにもかかわらず読後は虚しくもさわやかでもあるような、ほんとに現代のカタストロフを描かせたらこの人が一番。

わたしの中での龍作品の現在のベスト「音楽の海岸」(93年刊)ではすでに何人もの女性を「所持」して闇の世界で成功しつつある「ケンジ」の、これはまだ20歳のときの話という設定。

まだ人の心の闇に冷徹になれないケンジのナイーブさもまた魅力なんだけど、それはさておきケンジに夜の歌舞伎町のアテンドを依頼してきた謎のアメリカ人フランクが、コワイ、とにかくコワイ。

「悪意は、寂しさや悲しさや怒りといったネガティブな感情から生まれる。何か大切なものを奪われたという、からだをナイフで本当に削り取られたような、自分の中にできた空洞から悪意は生まれる。 」


この小説にも「寂しい」人間がじゃんじゃかでてくるんだけど、その「寂しさ」というのは、ある特定の状況で孤立しているからとか、まわりの人間とのふれあいがないとかいうのではなくて、「自分が思っているほどまわりの人間が自分に価値を感じてくれない」という曖昧とした、でも耐え難いほど切実な不満なのだ。

そうした自分本位な不満からにじみでる小さい悪意を、虫けらのようにふみつぶす大きな悪意。
それが「正義」であるという世界は危険だが・・・。

「ドッグヴィル」を思い出すなあ。