DVD  「春の雪」 & 原作memo

 


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三島由紀夫は天才だと思うけど、個人的にあまり好みでなくて、でもこの「春の雪」は小説読んだときに、一番「これはいいなあ」と思った。
武家の出の侯爵家に生まれた主人公の、美貌と脆弱さゆえの悲劇が、美しくも哀れなのである。

映画公開のとき、主人公清顕と聡子が、いまひとつイメージがあわなかったので、ひかれつつも劇場までいかなかったのだが、DVDでみて、やっぱりかなり原作の世界とは違う印象だった。

手元に原作があるのであらためて読んでみると、

まず清顕というのは、

「 彼は優雅の棘だ。しかも粗雑を忌み、洗練を喜ぶ彼の心が、実に徒労で、根無し草のようなものであることをも、清顕はよく知っていた。蝕ばもうと思って蝕ばむのではない。犯そうと思って犯すのではない。彼の毒は一族にとって、いかにも毒にはちがいないが、それは全く無益な毒で、その無益さが、いわば自分の生まれてきた意味だ、とこの美少年は考えていた。」

「 自分を愛してくれる人間を軽んじ、軽んじるばかりか冷酷に扱う清顕のよくない傾向を、本多ほど前々からよく察している友はなかったろう。この種の居傲は、十三歳の清顕が自分の美しさに対する人々の喝采を知ったときから、心の底にひそかに養われてきた黴のような感情だろうと、本多は推量していた。触れれば鈴音を立てそうな銀白色の黴の花。」

という、ナルシズムのみを根拠とした虚無と傲慢さに満ちた美少年。

一方、幼馴染のころから盲目的に清顕を想う聡子は、はかないまでに華奢な外見のうちに姉らしい自信に満ちた強さと激しさを秘める年上の美少女。


映画の中の二人の役者は、美しいんだけども、三島の小説に比べると、清顕は男らしく優しすぎ、聡子は女らしく優しすぎ、どちらも「凡庸ないいヒト」に見えてしまって、その結果二人の恋愛も、単に「禁じられた純愛」という、フツウのラブストーリーになってしまった。


原作では、ふたりが結ばれるということが、二人の立場が真に逆転するという精神的な意味をもつ、いかに濃密で高揚する瞬間であったかというと、

「聡子が一言も言葉を発することができないこんな状況へ、彼女を追いつめたのは清顕だったのだ。年上らしい訓戒めいた言葉を漏らすゆとりもなく、ただ無言で泣いているほかはない今の聡子ほど、彼にとって望ましい姿の聡子はなかった。

 しかもそれは襲の色目に云う白藤の着物を着た豪奢な狩りの獲物であるばかりではなく、禁忌としての、絶対の不可能としての、絶対の拒否としての、無双の美しさを湛えていた。」


しかし現実の前に、恋は春の雪のように消えるのであった、というのは小説も映画も同じ。

華族であれ庶民であれ、非凡であれ凡庸であれ、すべからく恋とは、はかない幻を追う病気。

原作は別にすれば、少年少女(ちょっと年いってるけど)の美しく切ないラブストーリーで、衣装や音楽も素晴らしく(エンディングは宇多田ヒカル"Be my Last")、みごたえある映画。

聡子の乳母役の、大楠道代がよかったなあ。