memo  宮台真司 「セカイ系」としてのアニメ『ゲド戦記』

ダ・ヴィンチ10月号に掲載の宮台真司コラム「オン・ザ・ブリッジ」でアニメ版「時をかける少女」と「ゲド戦記」の考察がなされている。前者への賞賛と後者への批判。

http://www.miyadai.com/index.php?itemid=392&catid=4

わたしはどちらもあまり興味がなくて見る気はないんだけど、エヴァンゲリオンに言及しているのが興味深かった。

エヴァの最終回を見てからずっと、「これは何かがおかしい、非常に不快だ、何かが間違っている」と思い続けいたが自分で納得のいく説明ができなかった。

宮台氏の「セカイ系」という言葉を読んで、「なるほど」。
宮台氏も前はもっと青かった気がするけど、このごろ(?)ちょっとクールになったかな。(しかしやっぱりコラムの前半はちんぷんかんぷん)


エヴァはまた復活するそうだけど、しかし大人はどうすればいいのか。
「自分探しをしよう」というのは簡単だけど、「自分探しをやめよう」というのは難しい、替わりになにかを提示しなければならないから。

そしてまた、無知な人々の関心を己にだけ向けさせて、世界をたやすく操る人々もいる。
自己啓発セミナーより新興宗教よりもっと大きな力。

いいのかそれで。
よくないよ。


以下memo。


写真は全然関係ないけど、KERAマニアックスvol.7の深キョン、かわゆい。


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<世界>のアレゴリカルな交響があるとする繊細な感性をアニメ版『時をかける少女』に、〈世界〉に無関心であるがゆえの「セカイ系」特有の出鱈目をアニメ版『ゲド戦記』に見る>


(前略)

主人公の成長物語という構造を共有しつつ、対照的にだめな −同一理由でだめなー アニメもある。(略)

同一理由とは、自己回復が世界回復に直結する「セカイ系」であることだ。

「セカイ系」の端緒は庵野秀明監督『新世紀エヴァンゲリオン』TVシリーズ。
当時担当していた朝日新聞論壇時評で批判した通り、「自分の謎」と「世界の謎」を提示した後、「自分の謎」が解消したとたんに「セカイの謎」も雲散するという、安易な構造だ。

(略)

代わりにあるのがセカイ系としての一貫性。
不完全な僕、褒められたい僕、碇シンジみたいな僕がいる。
その僕が何かのエクササイズで自己陶冶を遂げた暁にセカイは秩序を回復する。
エクササイズは「波乱万丈の旅と機能的に投下な自己啓発セミナー」そのものだ。

エクササイズは、セカイと同じ地平にあってもなくても構わない。
どうせ自己回復が世界回復であるようなセカイ。セカイから見て虚構か否かは論理的に問題にならない。
わたしはオウム真理教を思い出す。

ツライのは、ツライ世界があるからでなく、ツライと感じる境地があるだけ。だから修養によって自己陶冶を遂げればツラくなくなる。
修養のための自己陶冶がセカイ革命だ。
自己回復さえできれば世界はどうでもいい。
そこでは世界革命が自己陶冶のダシにされる。

(略)