夢を語る。
今さら夢を語ってみても仕方ない?いいえ、人は夢を永遠に持ち続け、そしてそっと誰かに伝えてみたいものなのです。
そしてあなたの胸に届いたらあなたの夢と語り合う。そんな思いを込めたコーナーです。
返り来ぬあの頃・・・
幼い頃見たきらめく星が降るような星空をもう一度見てみたい
障害者を中心にボランティア・一般を含めたミニ政党を作りたい
ノーマライディション実現は義務教育に社会福祉という科目を入れることだと思っています。
それも人間形成の上で小学校入学時から学ぶのがもっとも効果的ではないかと考えます。それに逆行しているのが養護学校義務化ではないでしょうか。
決して養護学校のすべてを否定しているわけではありませんが、いろいろな状況を考えた上で障害児と健常児が同じ場所に机を並べて学び合うのが理想的ではないかと恩います。みんなで一緒に勉強するにはどうしたらいいのか、それを実現するための方法をみんなで考えていけるような世の中になってくれることが僕の夢
です。
僕のこれからの夢は、ハンディキャプトでも健体者と同じことを同じようにできる高知にすることです。なにも大きなことは望みません。行きたいところに行きたいときに行ける高知にしたいのです。みなさんも、自分の問題として考えてみてください。みんな最後はハンディキャプトになるんですよ。ハンディキャプトで生まれてもそんなに苦労しない高知をみんなで一緒に作ろう。ううん、そんな高知を作る力をみなさん貸してくださいな。
例えば
1. 段差のこと
2. 乗り合いバスにみなさんと一緒に乗るためのリフト付きバスのこと
何度もいいますがみなさん自身の問題として考えてみてください。そしてみなさんのご意見もお寄せください。一緒に語り合いましょう。
私の夢は、三五年間生きてきて三度変わりました。最初の夢は小学校二年生の頃でプロ野球選手になることでした。それは、王・長嶋にあこがれ、毎日、日が暮れるまで近所の友達と草野球をして遊んでいた頃の夢でした。二度目の夢は、学生の頃で、一年先輩の女性でしたが《いつもその先輩と将来結婚できたら良いなあ》と、夢見たことを今でもはっきり覚えています。
そして、三五才になった現在の夢は、市会議員になることてす。社会人となって障害を持っていることによって社会に対する疑問や福祉のあり方など多くの問題にぶつかりました。障害者団体の中で、こうした様々な問題に取り組み、行政に要求してきました
。障害者団体に入って十三年余りになりますが、その間に例えば、物理的な面では以前と比べてずいぶん改善されてきたと思います。高知市内の例を挙げると障害者用トイレ・スロープ・点字ブロック・エレベーターなどが、公共施設をはじめとする建物に設置されています。これも、私たち障害者団体の運動の成果だと思います。
このように、高知市の福祉も徐々に進んでいます。しかし、現在、杜会の中の一人として生活をしていく上で、交通圏・介護・医療・労働などの問題において、行政は着手しているもののあまりにもそれらの進み方が遅いと思います。そんな行政の在り方の中に障害者自身が身をおくことが、色々と困難な面はあるとしても、もっと早く的確に、福祉は進んで行くものだと考えています。私の夢は私自身がその一人になることです。
これまでの三度の夢はまだかなっていませんが、今の夢をしっかり持ち、少しでも近づけるよう向上心を持ってあらゆることに挑戦し、これからの人生を前向きに生きて行きたいと思っています。
朝焼けに染まる田園地帯。
すでに稲刈りの終わった田圃の中を、駆け抜けてゆく柔道着姿の親子。
茜色に反射する道着の方が大き過ぎるのか、体の方がまだ小さ過ぎるのか、ぶかぶかで体に合わない恰好、これがまたたまらなく可愛い男の子。
その後を、息も絶えだえに遅れながらも付いて行く、その子の親にしては年かさの増した父親。後ろを振り返り、遅れている父親を気遣い声を掛ける。
「父ちやん!あと、もう少しだよ!」
すでに五キロもランニングしてきているのに、息も乱さずその場で止まってかけ足を続けながら、遅れている父親(私)を待っている息子(勝)。
“ホッホッホッホッホッホッ”
やがて、私は勝に追いついて、親子二人は一緒に走り始める・・。
・・・以上が、“貴方の夢は?”と尋ねられて、頭の中のスクリーンに投影されたシーンです。
だからでしょうか?この頃は正月・お盆と顔を見せる甥っ子達が、どうしようもなく可愛くてたまらなくなったりします。母性本能ならぬ、これが“父性本能の目覚め”と言うものだと思います。未だ、独り身の私ですが、変でしょうか?
でも、そのシーンがいつの日か現実となる事を願って止みません。
誰かが言ってた・・・・・
“夢”は叶うものではなく、
自分のその手で掴むものだから!!
まぶしい朝日、赤々したタ焼け、夜にはお月様とお星様がたくさん見えて、雨の日にはシャワーをあびるかのように雨の勢いが感じられるような大きな窓。お台所は五、六人でわいわいお料理が自由にできるくらい広い、リビングからは楽しそうな光景がみえたりして、一緒にお料理を楽しめる。
そしてそのリビングには、ワイドなスクリーンなんかがあって、ビデオや映画も迫力あるものが見れる。
ちょっと車椅子はこぎにくいけど、庭には芝生や緑、季節折々のお花が楽しめて、「今夜はうちで、ガーデンパーティーなんてどう?」なんて、お誘いしたりして。
そう、ついこの間、汽車の中で知り合った彼女が偶然にもピアニスト、私のお庭で演奏するために大阪から駆けつけて来てくれるって。《さっそく約束してしまった私。》
川崎にいるお友達は、チェロが弾けるというから共演もいいかも。
そう、土佐犬か、シェパードを飼うの。夏の暑い日には、シャワーなんか浴びさせてあげてね、ん一私のボディガードかな。
誰でも来られるバリアフリーの庭付き一軒家。こんなお家が欲しいなあ。私だけの設計でなく、一緒に住んでくれる星の王子様と
考えなきゃね。《私の王子様なんてどこにいるのやら?》
私の夢はたくさんあります。でもこの年齢(とし)になって自分個人の夢はもう語るだけの夢になってしまった。今となっては、子供たちの成長を目の当たりにすることが私の夢です。でももしも、私の足が元気に動いてくれたとしたら、……・ディズニーランドでミッキーと踊ったり、大好きなフミヤ君〔チェッカーズのボーカル〕と最高のコンサートをしていたかもしれません。たくさんの夢や可能性は障害がある今となっては語るだけのものに思えます。今度生まれ変わったらきっと……という強い思いは今も持っています。私たちは身体には羽根をつけられないけれど、自由に羽ばたくことのできる羽根を心につけて、夢としてではなく現実としてイキイキと生きて行けたらいいですね。
九月二三日漫画家の藤子・F・不二雄さんが六十二歳で亡くなられた。数ある藤子アニメの中で私にとって大変印象深いのは幼稚園時代にテレビ放送が始まったこともあり『ドラえもん』である。準主人公である「のび太」はどこにでもいる小学生でガキ大将にいじめられたり、点の悪いテストを隠したりする。そしてその度にドラえもんの不思議なポケットから様々な道具が出現し、当時私は毎回ほのぼのとした気持ちになったものだ。私は自分でカーペットに手作りの箱の操作盤をのせて【タイムマシン】といって遊んでいたように思う。年月を経て多忙でゆとりのない日々を過ごす今の生活では、とても考えられない空想的でふわふわとした世界を夢のように歩んでいたのがあの頃だった。今では現実逃避という別の意味で【どこでもドア】【タケコプター】があればと思う程度になってしまっった。無理であってもふと《こうありたい。こ
うだったらなあ。》と夢のあることを考えられる生活を送ること、それが私の今の夢である。
中平 浩
人生は素晴らしい
私の生きざまは
私だけの芸術−
生きることの
何と楽しいことか・・・
世の中のしがらみは
変わらなくても
こころを正せば
すべては成長の糧に・・・
この世に生を受けたことを
悦び 感謝し
百二十歳までは生きていよう
生涯青春の気概を
存分に謳歌しながら・・・
幼い頃『かわいいお嫁さんになる』ことが私の夢だった。そして、成長とともに多くの人にふれ、夢も変化していった。夢という言葉すら忘れていた時期もあった。やがて三〇代も後半になる頃、『両親や妹たちを大切にしてくれる温かい人と結婚して、親孝行したい』という夢を見るようになった。そして、夢がかなって、現在満足した日々を過ごしている。これからの私の夢は、『地球を旅すること、すばらしい人たちにふれること』である。もちろん夫とともに……。そのために、私は自分自身の感受性を育てることを大切にしていこうと思う。今の自分の足下の自然に感動できる目があっての地球旅行だろうし、人との出会いであると思う。夫といると、私の自然の生命力への鈍感さを痛感させられる。もっとゆっくり歩いてみようと思う。新しい発見を楽しみながら・・・・・・。ぱせりの会に参加させてもらっているのも、自分の鈍感で自分勝手な感受性にメスを入れて、健康な感受性を取り戻したいからである。自分の心の成長とともに旅も出会いも味わい深いものとなっていくだろう。とても楽しみだ。