子供のころ

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勝 已

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小学校時代の私は、よく遊んだ。
学校から帰ると近くのヒロッパ(広い野原の略?)に近所の友達と野球をした。
あのころは、こう君・やっ君・ひろ坊・とし坊・かずみちゃん・あいちゃん・みきちゃん…、近所に同じ年代の友達がいっぱいだ。
いつも10人ぐらい集まってチームをつくり、日が暮れてボールが見えなくなるまで遊んだ。
野球といっても、人数が多い時はグローブとソフトボール、少ないときにはゴムボール。
でもいつも勝ち負けにはこだわった。
私のポジションはいつもボールの飛んでこないライトか、ゴムボールでやるときはピッチャー。
よくエラーもした、喧嘩もした。
でも、みんなよく遊んでくれた。
本当に楽しかった。
野球をしないときは家の前にある川で釣りをした。
今は、堤防が高くなり釣りをしている光景もほとんど見なくなったけれど、あのころは、川面から竹竿で釣り糸を垂れてちょうどぐらいで、ニロギやチヌ、ボラなどいろんな魚が釣れた。
えさは川で掘ったゴカイ、庭や山で掘ったミミズ。
朝から夕方、ウキが見えなくなるまでよく釣りをした。
一人で釣ってると近所の友達やおじさんが「釣れゆうかえ」と話しかけてくれ一緒に釣った。
堤防の向かい側でも釣りをしていて、話しをしたり石を投げ合ったり、釣れた魚を自慢しあったりした。
釣り針が切れたり、糸がもつれたときみんなが直してくれた。みんな、“いいやつ”ばかりだった。
野球をしても、釣りをしてもみんな本当に一緒に遊んでくれた。
わたしは、そんな“いいやつ”ばかりの中で遊んで子供のころを過ごし大人になった。
今、近所にはあのころの友達は誰もいない。
偶に会って「久しぶり、元気しゆうかえ」と笑顔ですれ違う。
あのころを思い出しホッとする。
子供のころの友達は一生の宝物である。

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井上れい子BD06397_.WMF (31852 バイト)

子供の頃、やはり懐かしく思い出されるのは父母や姉たちと過ごした日々のことです。
生まれたのは須崎、海あり・山あり・川ありの自然に囲まれたふるさと。
私は五人姉妹の末っ子に生まれました。
なんとなく病弱だった私は親の羽毛の下で大切に育てられました。
クリスマス・お正月も嬉しかったけれど、寒がりの私にはなんと言っても春が一番。
すべり山と言われているところがあって、野いちごがたくさん採れたものでした。
ふきの葉で入れ物を作り、摘んできてお砂糖をまぶして食べたりジャムにしたり、タケノコやワラビも取れました。
海ではかきやアサリ、竿を担いであじ釣りをしたものでした。
池の内と言うところに大きな池があって大きなオタマジャクシがいた事、たわらもの不思議な形、可愛いメダカたちの事。
木の葉の冠、クローバーのネックレス、レンゲのブーケ、夏祭り、秋祭りはワクワク嬉しかった事。
そうそう幼なじみたちはどうしているのかなー。秋になって山に香りのよい白い野菊が咲き始めると、「この花、大好き」と母が言っていたことを思い出します。
私は毎年、この花の咲くのを待ちかねていて、よく母に摘んで帰ったものでした。母は料理上手でおさわちなども作りました。
盛りつけをするそばでお寿司の端をもらって食べたあの味が忘れられません。その母はもう亡くなりました。
でも父と姉たちが元気です。
女の子五人を育てるのは父と母にとって大変だったことでしょうね。
子供の頃より、多感で一番ひよわくって心配かけましたけれど、最後はこれで決まり、お父さん、お母さんありがとう。

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上岡美佐子

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子供の頃は、施設の中でした。
思い出って言えば・・・・・・・小学校の頃、冬休み・夏休みとか休みになるとみんな親元に帰ることができた。
みんなで楽しみにしていた頃のことを時々思い出す。
もちろん私もその一人だった。
ある冬休みのことだった。
母が施設に来るのが遅くなったことがある。(私の実家は大月なので一台汽車を乗り遅れてしまうと次の汽車が来るまでとても時間がかかる。)
母が来るのを一人で部屋の片隅で待っていたとき、ある一人の看護婦さんに「みさちゃんはいらん子やき連れに来てくれんがよ!」と言われて、小学生の私はいじけてしまいオイオイと泣いてしまいました。
そんなことがあって、私は子供心にその看護婦さんを憎んだものでした。
今思えば、懐かしい笑い話ですが・・・・・。

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谷美香BS00554_.WMF (3982 バイト)

私は小さい頃から本が好きで、いろんな本を読みました。
保育に行っている時には、母がセールスマンの誘惑に負けて、毎日届く「シール絵本」を買ってくれたのですが、これなんかは宝物でしたね。
今でもその本のことはよく覚えています。
とにかく図書室に行って本に囲まれていると「安心」を覚えるくらい本が好きで、学校の「係り」もぎっちり「図書係」をやっていました。
本は実にいろいろなことを教えてくれました。
私はホラーが好きなのでよく呼んだのは「少年探偵団」シリーズや、シャーロック・ホームズシリーズ。これらの内容もさる事ながら何が凄かったかって「挿し絵」!これがたまらんかったですね。今でも強烈に覚えているのはホームズの「まだらの紐」。
これは大槻ケンジも絶賛していましたが、子供心にはこの上なくおとろしく焼き付く絵でした。
あと中学生の時はクラブで「バスケット」をやっていました。
馬路中学校のクラブ活動は生徒数が少ないため、男子は野球女子はバスケと決まっていたから入ったのですが、これこそ青春と思えたほど楽しかったです。
私は副キャプテンをしていたのですがなんかそんな責任感も感じられ嬉しかったですね。成績も山奥の学校ながらまあまあやって、東部地域では名を轟かせてました。
もひとつはまっていたのは「文通」。
雑誌の中一コースとか「文通欄」をチェックしてはせっせとペンパル(死後?)作ってました。
一時はソウルとかアフリカのひとからの便りも届きましたが、一通目なのにいきなり「Iloveyou」とか書いてあるんで(何じゃこいつ!?)と子供心にも外人さんのパワーに驚いたものです。
子供の頃を思い出すと、う〜ん私って全然変わってない!と思います。
今も子供の延長で一体いつになったら中身が大人になれるのやら。(なれんきもする)
子供の頃はすぐ思い出せるけど遠い日々・・・・・・・。

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武内洋子PE02637_.wmf (21166 バイト)

勉強が嫌いで学校が終わると家の近くの公園や田畑で遊びまわていた事遊びすぎた夜になってから宿題や日課のドリル・漢字の練習等の勉強を目をこすりながら泣きたい思いで仕上げた事等々でもとてもしあわせだった子供の頃の私!
両親と祖父、祖母の五人暮らしで一人っ子の私は幸せいっぱい・わがままいっぱいに育った。
おばあちゃん子で依頼心の強い心の弱い子に育ってしまった私!
何かとりえはあるのかな?
でも過去は振り返らない。
過去はもう戻らない。
先を見つめて、今、現在を精一杯生きていこう。
せっかく、この世に生を受けたのだから!!
苦しいときにこそみんなと助け合って、思いやりの心を持ち頑張って生きていこう。

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小松由美

今回初めて書くのが子供の頃と言うことで好きなさだまさしの音楽をいやドラマを聞きながら書いています。
私は生まれたのは安芸市の山里で三歳から五歳まで過ごしたのが伊野町枝川です。
あの当時の台風で枝川が増水していつも家が水浸しで、消防士さんに船で助けてもらった記憶があります。
保育の頃、田んぼんなかの保育園でオタマジャクシを取ったり、保育の屋根に登って一人で降りられなくなって大泣きしたり、男の子みたいにショートパンツしかはいたことがないような子供だったな。
その反面大好きな歌の時間に隣の男の子に「歌うなー」なんて言われて担任の先生に泣いて知らせたり、気弱なところもありましたね。
小学の頃から父の実家へ移り住んでそれがまた山々山。
空なんかほんのちょっぴり。
山と山の隙間からのぞいているようにしか見えんかったのね。
同級生はなんと女ばっかり四人。(私も含めて)
当時は石油ストーブではなくて石炭のストーブで、休み時間にはまきとりに行ったし夏はプールがないので石で川をせき止めて自然プールをつくり(でも25メートルもないのね)水遊びしたなー。
時々、アブに追い立てられてなかなか水中から出られなくって皆で水の中でにらめっこしたこともあった。
「あはははは」思い出してたら、すごい生活してたんだねー。
そうそう、電話なんかもなかったし、ガスもなくってご飯は大きな釜で炊いてでもおいしかった。
でね、電話なんか音で自分の電話がわかるような電話で、他の人が話しててもちゃんと聞こえるの。
今思えばあれは親子電話のようなものでしたね。ちなみに家の電話番号はーーーと言う暗号だったなー。
そんな生活だったから、外の生活へのあこがれから中学に入って「なかよし」っていうまんがが好きになって大阪の同い年の子と文通したのね。
なんかその子が書いてくる手紙読んでいたら、生活の違いにすっごく自分が情けなくなって、手紙は出せなくなったのでそのうちやめてしまったのね。
だってあの頃映画は見たことないし、コンサートなんて何のことやって感じだったし、同級生とすいたはれたと書いてきても何せ同級生は女ばかりやし、下校したら立ち寄る遊び場などなく、真っ直ぐ帰って家の手伝いやったもんね。
高校に入ってからかな。
幼い頃の人と接することが少なかったので、すごく人に興味が出てきたというか人に会って勉強になるのね。
人が好きって言うか、(いえ、そりの合わん人もたまにいる)自分のエネルギーになるのが人との関わりのように思うのね。
逆に時には落ち込む原因にもなるけれど・・・・・・・。
私の子供の頃一言で言えば昭和四十年代だったけど、私の生活スタイルは昭和初期だったかしら・・・・・・。
なんて懐かしく思い出しています。いまはもう住んでいない山里の落書きを見ると本当にここに住んでたんだとなんかとおーい昔のことのようです。

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