県立新潟女子短期大学/生活科学科生活科学専攻/本間善夫研究室
★ノートをとるってどういうこと? ─“書く力”とは─
書き取り頁数 | 人数 / 人 | |||
---|---|---|---|---|
生活 | 食物 | 福祉 | 計(割合/%) | |
0 | 16 | 7 | 2 | 25(36.8) |
0〜0.5 | 12 | 10 | 2 | 24(35.3) |
0.5〜1 | 6 | 1 | 3 | 10(14.7) |
1〜2 | 4 | 4 | 0 | 8(11.8) |
2〜3 | 0 | 0 | 1 | 1( 1.5) |
コメント しばらく前から学生の“書く力”が落ちているのではないかと感じていたところ[*1],以下に引用した佐藤学さんの『女子生徒は誰一人としてノートを筆記しなかったし、…』という文章に行き当たって,どうすればいいのか一層悩みが深まっていた。 今回,複数の教員が担当している講義で入学後ほぼ5ヶ月が経過した学生(2年生も若干名受講)に対して初めて講義をした翌時間,上のようなアンケートをとってその実態を改めて知ることができた。板書がなくても,話の中から必要なことを書き取る力がついている学生もいるけれど,90分の講義の中で単語一つ書き取らなかった学生が1/3以上いるというのはどういうことなのだろう。想定外のアンケートに答えてくれた学生諸君に感謝すると同時に,この結果を見て今後の短大でのいろいろな講義でノートをどうやって取ればいいのかを考えるきっかけにしてもらいたいと考えている。 インターネット時代を迎えている中で,“学ぶ”ということの意味やスタイルが変わってきつつあるように常日頃感じている。ただ,やはり“書く”という行為はいつの時代でも大事なことだと思う。環境問題はじめいろいろな問題が噴出し,自己責任が必要とされる時代においては,学生でなくても重要な生活習慣かもしれない。 筆者自身,学生時代のノートは今でも大事な財産である。例えば,単位が足りていたので試験は受けずに(試驗勉強はしたくなかった ^^; )講義だけを聞かせてもらった教養科目の「美術」は,集中講義で暗幕を閉めてスライドを使った作品の紹介(ギリシャ美術,ルネッサンス美術[*2]など)で,暗い中での説明を必死でノートをとった覚えがある。その後,美術的興味から新約聖書やギリシャ神話(プルサーマルの“プル”もここからきている!;言葉の連想ゲーム参照)を読むきっかけになったり(これは“読む力”の話になるだろう),何人かの画家の画集を手に入れたりしたのは懐かしい思い出である。大学の講義(それ以外にもいろいろなネタが周囲には埋もれている!)は自分の意志で何かを学び始める出発点に過ぎないと考えている。 毎年の講義や演習のやり方も様々に試行錯誤しているが,独りよがりの面も少なくないだろう。これからも学生との相互作用(本ページ作成もその一環なのだけれど)の中で,お互いの中に何かが生まれてくればいいと願っている。 【蛇足】 |
《 今後も資料を追加します 》
■ 関連資料
どの女子生徒もルーズ・ソックス、ラルフローレンのチョッキ、バーバリーのマフラーで何度も手鏡で髪をすいている。容姿の画一化と外からの外からのまなざしへの過剰な意識は、彼女たちの自我が霧散している状況を象徴している。
三つの授業を参観したのだが、女子生徒は誰一人としてノートを筆記しなかったし、授業の内容に関して教師と応答した生徒もいなかった。表情が暗いわけでも教室で騒いでいるわけでもない。何度も手鏡を出して髪を整え、ときどき教師や友達に笑顔のメッセージを送り、腕時計を何度も見ては、授業を終わるのを待っている。何人かの男子生徒は教師と冗談を交わし、おもしろい教材を提示されれば授業に興味を示している。しかし、多くは沈黙を保っているだけで、教師から質問されて自分が何を考えているのかわからないで、「えっ?」「えっ?」と言ってとまどうだけである。