第一章 憑依


大学病院のビルの屋上に阿部将司は立っていた。高所恐怖症の人であったら目
も眩む高さであろう。彼は柵を乗り越え病院の駐車場を見降ろしていたのであ
る。

(これで何もかも終わりに出来る)

半年前迄は、こんな事になるなんて彼は想像もしていなかった。小さい頃から
勉強が出来てスポーツマンだった彼は周囲の期待を裏切ることなく一流大学を
卒業し、大企業に就職したのである。同期の中でも出世頭であった彼は35歳
で課長にまで昇進していた。それが半年前の健康診断で癌を宣告されたのであ
る。悪性の癌は広範囲に侵食しており2回の手術でも摘出しきれなかったので
ある。

「下には誰も居ないよな。巻き込んだら大変だからな」

夜の2時過ぎにこんな所を歩いている人など居るわけがないのであるが、用心
には越したことはない。

(なにしてるの?)

声の源を求めて将司が振り返ると、そこには二十歳前後の女性がパジャマ姿に
カーディガンを羽織って立っていた。恰好からすると彼女もこの病院に入院し
ているのであろう。

「なんでもないよ、向こうに行って下さい」
(死ぬつもりなんでしょ?)

確かに柵を乗り越えて下を覗き込んでいれば誰もがそう思うであろう。

「君には関係ないことだ、向こうに行ってくれないか」
(関係無くないのよ、死ぬつもりなんでしょ?)
「だったらどうだって言うんだ」
(やっぱり!良かったわ)
「良かった?」
阿部将司は一瞬自分の耳を疑った。
(ええ、死ぬんでしょ?良かったわ)
「だったら、今、死ぬから向こうに行ってくれないか」
(その前にお願いがあるの)
「なんの話しだよ」
(死ぬんだったら、その身体、貰えますか?)
「・・・・君は死神か?」
(良く言うわね、こんな可愛い死神がいるわけないでしょ)
(それに死神だったら身体じゃなくて魂を持って行くのよ(笑))
「そうか・・・臓器移植をしてほしいのか、だったら駄目だよ」
(どうしてですか?)
「僕の身体は悪性の癌に犯されてるから、移植は出来ないよ」
(どのくらいの命なんですか?)
「思い出したく無いことを聞くね、笑。もって3ヶ月かな」
(それだけあれば十分です。私に下さい)
「へんな娘だなぁ、どこの病棟に入院してるの?」
将司は精神病の患者だと思っていた。
(もう、入院はしてないの)
「えっ?、じゃ、どうしてここに?面会時間は過ぎてるよ」
お見舞いに来たにしては恰好が変である。
(昨日、死んじゃったのよ。交通事故で入院したんだけど)
「・・・・・」
(ねぇ、いいでしょ?)
「あぅぅぅぅ」
激痛が将司の身体を襲ったのである。目が眩みバランスを崩した拍子にビルの
淵から足を踏み外してしまった。駐車場のアスファルトが近づいて来る。
(ねぇ、いいでしょ?)
横を見ると、その女性も将司と一緒に落下しているのである
(いいわよ、ね)
「うわぁぁぁぁぁ・・・・」
将司は落ちながら気を失っていた。




目を覚ますと、そこは、いつものベットの上であった。

「阿部さん?夜中に勝手に出歩かないで下さいね」
看護婦さんが怒って言った。
「みんなで捜し回ったのよ。今後、気をつけて下さいね」
「僕はどこで?」
「駐車場で倒れていたの、駐車場で苦しくなって気を失ったみたいね」
「そうですか」
「そうですかじゃなくて、勝手に歩き回らないで下さいね」
「はい、すみません」

昨夜のことは夢だったのだろうか?
「看護婦さん?聞きたいことがあるんですが」
「なに?」
「二十歳くらいの女性が交通事故で入院していましたか?」
「さー、緊急病院ですから毎日、交通事故の人は運び込まれて来るわね」
「そうですか・・・」
「なんで?」
「いえ、なんでもありません」
「そう?、じゃ、苦しくなったら、このボタンを押してくださいね」

そう言うと看護婦さんは病室を出ていった。

(なんで、貴方がまだいるの?)
将司の頭の中で声が聞こえた。
「えっ?」
(昨晩、貴方は死んだんだから身体から出ていってもらわないと)
「あれ?」
(早く、出ていってよ)
(誰だ?)
(名前を言ってなかったわね。私は藤原真央よ、貴方は阿部将司さんね)
(僕は頭を打ったのかぁ?)
(違うわよ。昨夜、身体を貰ったから私が貴方の体に入ったんじゃない)
(貴方には出て行って頂ただかないと)
(これは僕の身体だぞ、君こそ出て行ってくれ)
(だって・・)
(そもそも、もっと、健康な人の身体に入ればいいだろ?なんで僕なんだ)
(時間が無かったのよ、日の出、迄に身体に入らなかったら蒸発してたわ)
(だからと言って僕の体に入ることないだろ)
(誰がこんな男の身体なんて・・・げっ、男臭い!)
(早く、出て行ってくれよ)
(代体を捜さないと、もう浮遊は出来ないわ。ちょっと、体を借りるわよ)
(えっ?)
突然、将司の意志に反して彼の身体はベットから起き上がると廊下に出ていっ
た。
(おい、どこに行くんだ?)
(霊安室よ、魂が抜けてから1時間が勝負なの)
(わかった、代体が見つかれば出ていってくれるんだな)
(当たり前よ)
(おい、何処に行くんだ?霊安室はそっちじゃないぞ)
(ちょっと、トイレよ。それともお漏らしする?するのは貴方の身体よ)
(おーーい、急げ!!漏らすなよ)
(大丈夫よ。念のためだから、笑)
トイレの前に来ると、彼女は女性用に入ろうとするではないか
(おいおい、そっちは違うよ!!)
(あっ、ごめん、つい習慣で。あははは)
将司(真央)は小便器の前に立ってもじもじしている。
(なにしてるんだよ)
(どうするの?)
(おちんちんを指で摘まんで出すんだよ。そのまま、おしっこするなよ)
(・・・・・・)
将司(真央)は汚いものを摘むような手つきでオチンチンを出して、やっとの
事で放尿をはじめた。

(おいおい、よく振ってくれよな。パンツが汚れるだろ)
(ばっちいよ、触わるの)
(よく言うよ、フェラの時は咥えたりするんだろ)
(サイテー、スケベ、エッチ、チカン、・・・・)
将司の頭の中では延々と罵りが続いていた。
(わかった、悪かったよ。それより霊安室だろ!)


(あっ、うぅぅぅぅ・・・・)
(どうした?)
(痛い、全身が・・・・)
(僕は感じないよ。笑)
(どうにかしてよ、この痛みを・・・)
(ポケットに鎮痛剤が入ってるから飲んだら?)
(早く、行ってよ。あっあぁぁぁうっ、いたっい〜っ)
将司(真央)はポケットより薬を取り出し洗面所の水と一緒に呑み込んだ。全
身汗まみれになっている。将司もこの苦痛は何度も味わっているので他人事で
はない。<自分事なのだが>

(人が来たぞ)
(・・・・・)
「大丈夫ですか?凄い汗ですが?」
「えぇ、大丈夫よ」
声を掛けた男性は将司の返事がオカマ言葉だったのにびっくりしたようである。
「そうですか、失礼しました」
男性は将司から離れていった。

(おい、気をつけてくれよ。僕はオカマじゃないぞ)
「わかったわよ」
(声に出すなって!)




(駄目ね、みんな時間が経ち過ぎてるわ)
(しばらく、待ってみようか?)
(ええ)

将司と真央は霊安室で死体の来るのを待つことにした。

20分後・・・・
(この体はどうだ?)
(駄目よ、老衰じゃないの!これじゃ入り込めないわ)

50分後・・・・
(あっ、来たぞ!隠れろ。)
(この人だったらいいんじゃないか?)
(20代後半ってとこかしら、でも好みの顔じゃないわね)
(何を贅沢言ってるんだよ)
(それに、この人、足が切断されて無いもの・・・・)

1時間後・・・・
(この人は?)
(美人ね、この人にしようかしら)
(あっ、駄目だ。おちんちんが付いてる)
(えっ?)

(しかし、よく人の死ぬ病院だな・・・)
(来たわよ)
1時間半後・・・
(この人、良いんじゃないか?僕の好みだな)
(20代前半、チャーミング、五体満足ね)
(だろぅ?)
(この身体に移るわ。サヨウナラ!)

白いオーラが将司の身体から湧き出たと思うと女性の鼻と口に入って行った。
「お世話をかけました。」
床に倒れている将司をみつけた真央は近づき彼を抱き起こした。
「大丈夫?しっかりして」
将司はピクリとも動かない。
(大丈夫だよ)
将司の顔は死人のように動いていなかった。
「えっ?」
(ここだよ)
「えぇぇ?なんで貴方まで移って来たのよ!」
(こんどは僕の健全な死体を捜そう)
(なに言ってるの?)
(その体は癌で3ヶ月しか維持出来ないから、他に移ることにした)
その時、次の死体が運ばれて来たのである。
(まずい、死体が動いていたら・・・)
(取りあえず、逃げよう!)
(その前に・・・僕のガウンを着た方が良いと思うよ)
確かに、全裸の女性は目立ち過ぎるであろう。