「難解が快感に変わるころ(CASSHERN)」

最近、TVで映画「キャシャーン(CASSHERN)」をやっているのを見ました。今回が地上波初登場だそうで。この映画に関しては、以前から気にはなっていたんですけど。なにしろ元シナジー幾何学の庄野晴彦氏がCGで関っているとあっては、見ない訳にはいかんでしょうが。しかし、まだ未見であったため、今回が初視聴。ていうか劇場で見てこいよ、って感じなんですが、まあ元々滅多に劇場に足を運ぶような事はしないタイプである上、世間的に結構評判が悪かったという事もあって、レンタルする気も起きずに二の足を踏んでいたところ。
邦画界の歴史を汚す程の駄作と評され、その後公開されたあの悪名高き映画「デビルマン」が無ければ、間違いなく04年度のワーストとされたであろうこの映画、さていかがなものなのかと心配しながら見たけれど・・・。

なんだよ、結構普通に楽しめる映画じゃんかよ。
ていうか、もう全編にわたってシナジー節、庄野ワールド全開で個人的に興奮しまくりなんですけど。

さて、ここからモロにネタバレの話に突入していきますんで、未見の人はその辺注意してください。
まあ、この作品が賛否を巻き起こし、非難される理由も充分分かります。まずなにより演出が分かりにくいし、同じシーンやセリフが何度も出てきてクドい。その割には謎めいた部分には一切説明がなく、完全に視聴者は置いてけぼり状態。映像もエフェクトかかりまくりで、なんとなくアザとく見えてしまうのも反感を買った理由なのかもしれません。そしてなにより問題なのは、キャシャーンというアニメのヒーローを扱っていながら、その実全然ヒーロー物の映画では無かったということ。もっともヒーローらしかったのは中盤だけ。後はもうそれが打ち崩されて、ヒーロー物の醍醐味もへったくれも無く、ロクに活躍も出来ないまま夢破れて終わってしまうというトンデモな展開。
私は元になったアニメはサラっとした情報しか持ちえていないし、未見でしたから詳しいことは分かりませんけど、恐らく全然違う展開のハズで、そりゃ原作ファンは怒るだろうな、というのは想像に難くなく、それがあの大不評に繋がっていったのだろうな、と。

しかし、だからといって邦画界を汚す程の大駄作とまで言うのには、全くもって賛同しかねますな。どうも個人的で感情的な意見が混じっているとしか思えない。
だったらこっちも個人的な事を言わせてもらえば、この独特な世界観と雰囲気、かなりツボです。ていうかもうこれ完全にシナジー・ワールドですよ。細かい所までしっかり世界観が作り込まれた映画に私は弱い、というのは以前ここで映画「ダークシティ」を取り上げた時にも書きましたが、監督や制作スタッフがこだわりにこだわって作った映像というのはやっぱり見ていて楽しいものです。しかも大東亜なんて設定、なんてマニアックな。だからこそ庄野さんとかに白羽の矢がたったんでしょうけど、こういう設定に6憶もかけたとは、なんと贅沢な。羨ましい!
庄野さんはCGのスーパーバイザーで参加、またほとんどのメカやCGセットのデザインをおこしていて、見てすぐに庄野デザインと分かります。あんな長方形の飛行艇なんて普通のデザイナーは思いつきません(笑)。

でもこんな世界観に一般の人は喜ばないですよね。そもそもそこからしてマニアックなので、皆の共感を得られないのが困ったもの。まああのシナジーがそうだった訳ですから、これも同じ道筋をたどってしまうのは必然的運命だったのか・・。まあ個人的にはここまで庄野ワールドを映像化してくれてごっつあんですって感じなんですが。(笑)
だから私に関して言えば、かなり気に入ってしまったので結局DVD買っちまったじゃないのよバカヤロー(笑)。

でたー庄野さんといえば列車(笑)
背後の3枚プロペラヘリの歪なデザインも
たまりません。
ところでなんで将軍役に大滝さんなのかって
思ったんですが、なんとなくこの人
GADGETの独裁者オロフスキーに似ている・・
ような気がするんですが・・・(超妄想)
ブライの乗る長方形型巨大母艦、格好エエー
うおーなんかいっぱいプロペラついてるー
ウホホー(馬鹿です)

で、DVDには監督以下、出演者も含んだ賑やかなコメンタリーが付いていて、ラジオ番組でも聴いているような楽しい内容。それはともかく、監督がこの映画で何を意図していたのか、また各シーンでの難解な部分の解説をここできっちり行っており、かなり参考になりました。というか、相当に突っ込んだ部分まで詳細に語ってしまっているので、謎は謎のままで残しておきたいという向きの人には余計なお世話なのかもしれませんが・・・。
DVD版でもう一度見直し、コメンタリーの解説を聴いたうえでの私の結論は、やっぱりこれってカルトムービーであって娯楽作品ではないということ。

ただしこれは否定している訳では全然なくて、私にとってはさしたる問題ではありません。ただ世間一般的に見るとアニメのヒーローを扱っているという時点でもはや言い逃れ出来ない立場であることは確かで、それだったら誰もがアクション娯楽大作を期待して見に行ってしまうのは必然。ところが見せられたのがカルトムービーとあっては皆???となってしまう。
一応アニメ的なアクションシーンは盛り込まれているけど、あくまで一部。逆にこれをカルトムービーとして見るとそのせいで中途半端な印象を受け、いっそのこと要らなかったんじゃないの?てな話になる。結局どっちつかずな印象もある訳で、そこがまた監督が素人だという意見に繋がっているのでしょうか。

見ていて薄々は私も感じていましたが、この映画は元々舞台劇をイメージして作られている、という事を監督はハッキリと言い切っています。そう考えると、あの大袈裟な演技やクドい演出も合点がいきます。つまり、シェークスピアの戯曲でも描いているようなイメージと言えばいいのか、一種神話のようなものであり、謎の稲妻型の物体(稲妻モノリスと言われている)や、突然眼下に現われるロボット城などの唐突さも、そういった神話としてのエピソードなのだと考えれば、まあそういう展開にはなるんだろうな、とは思えます。 この辺りの事に関しては後に詳しく。

それとこれはコメンタリで聞いて一番驚いた事なんですけど、後半に登場する第七管区でのエピソードは、主人公鉄也の妄想や幻想に近いものであり、実際にはもう誰もいない廃墟になっている、という設定。そこで出会う老医師も幽霊などの存在に近いとの事。しかし、その割には軍がやってきて捕虜を確保していくシーンがあり、そう考えた場合に矛盾が発生してしまいます。
この辺は、現実と虚構が交差している感じを出したかったとの事で、矛盾やなんでそこにその人がいるの、といった展開を平気でやっちゃたみたい。確かに、戦場に行っていたかつての主人公と本人が対峙してしまうというシーンがあり、そう言われれば、なるほどそういう意味でそのシーンはあったのかと納得出来ますが、そもそもそんな事気付かないから、非常に難解なシーンと捉えてしまいますね。勿論、そこを実在するかそうじゃないかをはっきりと特定出来ないようにあえて曖昧に作っている感じがするから、見た人の大半は混乱してしまうはず。

ちなみに、この第七管区のシーンはあんまり私は好きじゃなかったりします。他のシーンと比べても、どうもスケール感といいセットがチャチい。ここはどうにも画像処理でごまかしきれてない感ありありで、まあ舞台的といえばアリなんでしょうが、元々エキストラが少ない映画なので、ここに予算をぶち込んでもっと広大なセットで村人をたくさん出したほうが臨場感が出たはず・・・。でも予算的に無理だったんだろうなあ。6憶は大金に思えるけど、今のハリウッドが平気で100憶とかかけている事から考えると相当に低予算。そう思えばまだ検討している方と言えるのかも。

問題の第七管区。モノクロ画像にしたは
いいんですが、どうも閉鎖的で
舞台セットにしか見えず残念。
まあ舞台劇を意識した映画ではありますが
唐沢さん演じるブライの語り口調はまさに
演劇的。彼の登場シーンの殆どは
戯曲か何かのよう。でもイキナリこれを
見せられた人は混乱しますわな。
中盤のロボ対決シーンは逆に超アニメ的。
それだけに全体的に見ると少し浮いているかも。
個人的には、アクションシーンでのヘビメタ調の
BGMはベタ過ぎてイマイチ。

さて話を戻すと、ラストで主人公鉄也は巨大ロボの自爆を止めようと必死に止めに入る訳ですが、これが全然歯が立たない。実はここも彼の中の心情的な戦いになっていて、あの奇妙な時限装置も彼やその周りに対する過去と未来が迫ってやってきていることの象徴であり(あるいは現実と虚構か?)、必死でもがいても抵抗出来るはずがない。その直後に鉄也は事件の真相を突きつけられて、愕然とする事になる訳で・・・。
なんかこれって、どっかの話に似ている、と思ってすぐさま思い浮かんだのが、やはり庄野晴彦氏が手がけた「GADGET」。この話も途中から、一体誰の話が事実なのか解らなくなり、現実と虚構が交錯し、心情的な世界へと突入していきます。そして何のために主人公が使われて来たのかが明らかになって愕然とするという・・。勿論、その事実もどこまで事実なのかは曖昧なまま終わってしまう訳ですが・・。

まあこれって私の相当なこじつけ入ってますけど、紀里谷監督って今回の作風を見るにつけ、流行の言葉で言えば確実に「シナジー・チルドレン」なので、絶対同じ趣向があるはず。そもそもシナジー系の人は「2001年宇宙の旅」の展開やイメージに多大な影響を受けているので、そういう曖昧な展開を好むのはよく分かりますよ。
ただ問題は、今回の作品はあくまでキャシャーンというヒーローを扱っていただけに、そんな展開になるとは誰も思っておらず、いやそうじゃ無くても普通はそこまで気付きません。正直、言われない限りはそういう構造になっているなんて思わないし。画面の中に矛盾や分かりにくい展開があっても大概は、作っている側がミスしたんだろうと考えてしまう。実はそれが確信犯的にやられた事だと言われても、言い訳なんじゃないの?って思われるのがオチでしょうなあ。

それともうひとつ、しつっこく愛だの平和だのを説教臭く延々と聞かされる事について。たしかにここまで臆面もなく言われてしまうと気恥ずかしいものがあります。私達みたいな性格のねじ曲がった人間には辛い仕打ちです(笑)。
しかしコメンタリーを聞いてちょっと納得。実はこの映画、それほどまで愛と平和を訴えていながら、映画の内容的には全く真逆の方向へ進んでしまう。関係者の殆どが死に、主人公のヒーローは自分の恋人ひとり救う事ができない。監督が言いたかったのはこれで、みんな今さらそんなことは口にしないし、楽観的な視点で物は言えない世の中になっているけど、そうはいってもほとんどの人は漠然と平和を願っているはずで、この世もろとも皆死んじまえなんて思っているのはごく一部の人間のみ。しかしそんな彼らとて、不幸なままよりかは幸福でいたいと無意識にでも思っているはず。不幸な状態のままで満足、なんて人はいない。つまり、みんな同じ事を思っていて、そして今まで幾度となくこうした平和への願いは発せられているのに、何故か誰もそれが出来ない。

そう考えたとき、ラストの皆が幸せそうにしている映像の数々は、今までの事は無かった事になったというような楽観的な映像ではなく、みんな内心はこうありたいと思っているのに、何故かそれが出来ない事への暗示、と取る事が出来ます。
さすがにこれにはやられた・・・と思いましたね。ほとんどの人は見るものに考える余地を与えない余計なお世話行為と捉えていると思いますが、実際にはそれでも物事はうまくいかないという事への布石だった訳です。本当にここまで計算されて作られていたとするならば恐るべし、ですが、だとしてもやっぱり初見でそこまで気付く人なんかいませんよね。説明を聞いてやっと分かるレベル。
私が思うに、世間的にそういう事が平然と言われくなってきた事へのアンチテーゼ(んな事口に出して言うなよ、言われなくてもわかってんだよ全く、という輩に対して)と感じたんですがどうなんでしょうか。


なお、DVDを見て、地上波公開版はこのラストにちょっと手が加えられている事が分かりました。ルナが復活するところで既にウタダの唄がかぶさっていましたけど、実際にはエンドクレジットになってから流れるのが本当で、ルナはこのときに色々喋ってます。死んだブライの血が乗り移って、ブライの憎しみによって無理矢理動かされている訳です。最後にくだけ散ったのは、ルナがスーツをビリビリを破いてしまったためだそうですが、これはオリジナルでも曖昧な表現になっていました。鉄也が全く抵抗する気なしだったので分かりにくい演出です。
今回の地上波版は監督自ら編集したという話なので、ここをさらに分かりにくくしてしまったというからには、多分もう意味としてはどうとでも取ってくれという事の証しだと思います。それかもしくは、ウタダの唄う歌詞が全てを物語っているのかな?

なんていうのか、もうこれは後にDVD等で何度も見て、色々熟考する事が大前提で作られているとしか思えません。まさにビデオ世代の作品です。映画館で見て終了というタイプの映画では無いんですね。「ドニー・ダーコ」とか「メメント」とかそんな世代の映画の典型ですよね。後かつて、映画の本編以外に他のメディアから情報を仕入れる事によって話を膨らませるという手法で脚光を浴びた「ブレアウィッチ・プロジェクト」なんて映画がありましたっけ。

役者陣は皆この世界に溶け込み、頑張ってます。
中でもミッチーこと及川氏の演技が素晴らしい。
この世界観に彼は見事にマッチしていますね。
独裁者の息子、上条中佐。
個人的に一番好きなキャラです。
野心家に見えるけど、実際には父のやり方を
正したいという熱血人。
もう一人の主人公とも言える東博士。
彼のポジションが悪なのか正義なのかが
ハッキリしないため、混乱を生む要因の一つに
なっていると思います。実際には妻のせいで
ちょっとおかしくなっているのが本当の所か。

私はこういう舞台劇な映画は嫌いじゃないですよ。むしろ好き。
舞台演出家であったジュリー・テイモアが手がけた「タイタス」という映画では、舞台劇演出の手法をまんま映画で表現していて、様々な時代の文化がごっちゃになった超独特な映画になってましたけど、この映画も私は好み。まあタイタスの場合もシェークスピアの悲劇の話を結構マトモに描いているので、分かりにくい映画ではなかったですけど。

で、こういう変わった映画、例えば「未来世紀ブラジル」とか「タイタス」とか私は大好きなんだけど、よく考えてみると、私はこれらの映画のストーリーはたいして好きじゃ無かった事に気付きました。「ブラジル」はギリアム監督特有の意地悪なブラックユーモアがどうしても肌に合わないし、タイタスは、復讐と憎しみの連鎖反応が見ていていたたまれない。では何故私はこれらの映画に惹かれるのか。やっぱり映画全体の雰囲気や世界観、こだわりなんかに見入ってしまう傾向があるようで、やっぱりそこの比重が大きいんだな、と。

しかし、そうは言っても、そのストーリーのせいでどうにも好きになれない映画ってのもあり、例えば「セブン」や「ソウ」はどうしても私が好きになれなかった映画。両者とも、凶悪な犯罪者の完全犯罪をまざまざと見せつけられる話であり、被害者に対する救済が一切行われないまま話が終わってしまう。この映画は非常に評価が高くて、私もその意見には賛同。でも私は嫌い。別に悲劇がダメって訳ではなく、犯罪者がニヤリと笑ったまま終わる話なんて見たくもないってこと。
まあそういう訳なんで、人それぞれ譲れないこだわりがあるので、それが無視されたり駄目な物があった場合は酷評に繋がってしまう。でも気をつけなければならないのは、だからといってそれを駄作と言い切ってしまうのはとても危険だということ。
キャシャーンについて言えば、非難される理由も分かるのでなんとも言えませんが、しかし駄作とは思わない。テーマや表現がマニアック過ぎて受け入れにくい作品なだけのような気がします。もし難解で独善的な映画がダメなら、デビット・リンチや塚本晋也に、タルコフスキーの映画だってみんなダメってことになってしまう。


何故この映画がここまで酷評されねばならなかったのか、という事について私は興味が沸き始めています。たしかに厄介な作品です。しかしそれだけでなく見るべき所もたくさんあると私は思います。ですが監督が半ば確信犯的にストーリーを破綻させているとあっては、そこを論じるのは無意味なのかもしれません。ただ、その確信犯的な難解演出が本当の意味で難解・分かりにくいため、しかも見た人のほとんどがそれを望んでいなかった故にズレが生じたのが大きな原因だったんでしょうか。何しろアニメヒーローの実写化というふれこみだった訳ですから。
でも実際には、監督がキャシャーンを見て感じたこと、学んだ事を映像化したのが今回の作品だった訳です。本人は凄くリスペクトしているんだけれども、さすがにそれは伝わりにくい。皆、忠実に作ってくれていると思いこんでるんだから。
なんというかリンチの映画に娯楽大作を望む人が大量に見に行ってしまったというような感じか・・・。

ちょっとリンチの「砂の惑星」を思い出しますね。あのSF大河をリンチはやっとの思いでまとめあげたけど、所詮は無謀な試みで映画としては大失敗。でも偉いのは、そんな作品でも彼の趣味趣向が色濃く反映されていて、いかにも彼らしい作品であったこと。世界観とか他にはない独特な物がちゃんと築き上げられていたから、私はこの映画は結構好きだったんでこれまた、駄作だとは思ってません。

で、私なりの賛否の結論としてひとつあげるとするなら、この映画の演劇的部分にそもそも賛否の根源があるのではないかと思えてきました。この映画が完全に演劇を意識したものだ、というのは既に述べたとおりですが、つまり、愛だの平和だの、そんなメッセージだとか、脚本が面白くないとか、実はそういう事ではないんじゃないかと。

私は昔、舞台演出家として著名な蜷川幸雄演出による舞台「ハムレット」を見たことがあります。と言っても実際に見に行った訳ではなく、録画された舞台をTVで放映していたので、それを見たに過ぎません。蜷川幸雄氏は何度もハムレットを演出していますが、私がこの時見たのは88年に公開されたもので、主演は今やハリウッドスターとなった渡辺謙。
この舞台はかなり変わった試みがなされており、舞台をヨーロッパから日本の室町時代に変え、衣装は当然和服に。セットは階段上の雛壇になっており、宮廷内の登場人物がそろって座ると、ちょうとひな祭りの人形のように見えるという工夫が。(雛壇は蜷川さんのこだわりらしく、何度も多用されているそうです)
しかし名前は変わらずオリジナルのままなので、昔の日本の設定なのに名前は英語という何ともいえない違和感が。しかも他の国の服装は日本の戦前の軍服を着ているなどの差別化がされており、この辺のごった煮感は演劇ではよくあること。
初めてみたときは、その見た目の強烈なインパクトに圧倒されてしまいました。しかし、この舞台はかなり難解。いや、話自体は結構マトモにシェークスピアの悲劇をなぞっています。しかし、日常会話の部分で古典的な文章があえて使われているので、小難しい上に非常にわかりづらい。そしてなによりセリフの応酬。演者は皆、早口で長いセリフを迫真の演技とともにまくしたてる。

で、今回「キャシャーン」を見て色々考えているうちに、昔見たこのハムレットがフィードバックしてきたのです。つまり、あの映画の長くて説教くさい長々としたセリフや、もったいぶったシーンの割り当て方など、演劇の演出法をなぞらえているのだとすれば、実は常套手段だったのだと。
演劇においての長々としたセリフはよくある手法です。私は演劇にそんなに詳しい訳じゃ無いですが、恐らく、その言葉ひとつひとつに重要な意味があるとしても、実際には観客はそれらの言葉全てを理解する必要はなく、その全体の雰囲気をつかむ事によって意味を理解させようとしているように私は感じました。
もしキャシャーンの映画をこの文法に当てはめた場合、全くの常套手段であるばかりか、むしろこれくらい喋らないと意味がないんです。つまりこれが演劇ならば、長い演出やセリフ、唐突な場面転換、すべてが納得の範疇。
そう思った瞬間、長々としたシーンは苦ではなくなり、説教くさいセリフに嫌みは感じなくなり、意味不明なシーンにも疑問は持たなくなりました。(まあ繰り返し入るモノローグはやっぱりうざったいけど)

逆に言えば、演劇的文法を知らない、あるいは慣れていない人にとっては、当然違和感を覚える訳で、私が普通にこの映画を楽しめたという最大の要因のひとつは、別にグラフィックが好みの路線だったという事だけではなく、既に演劇的文法に免疫があったからなのではないかと。
つまりは、この映画のよく批判される所の説教臭くて考える余地を与えないセリフっていう部分は、演劇的に見れば全く間違っていないということ。というか、そう考えてしまうと逆にアレじゃ物足りないって話になってくる。もっと抽象的な文章を加えて、もっと長々と話さなきゃ、とか(笑)。
まあこの手の話になると、そもそも演劇的文法を映画の中に持ち込むこと自体が間違ってはいまいか、映画にした以上、映画の文法になぞらえるべきではないのか、という極論になりがち。まあそれを言っちゃあおしまいよ、ではあるんですが・・・。 ならミュージカルはどうなんだ、とか。
ちなみに私はミュージカルは苦手(笑)

私の場合、前述のハムレットを見たのがきっかけで一時は舞台にハマり、野田 秀樹やらなにやらと、結構見ていた時期があります。まあこれもほとんどTVによる録画中継を見ているに過ぎなかったりするんですが、今でもホントは結構見たい。時間があれば、ですけど。CSのシアター・テレビジョンって今でもやってるかなあ。
なお演劇的映画といえば前述したタイタスがそれに当たります。また、アニメでは「少女革命ウテナ」が演劇的文法を大胆に取り入れていると聞きます(私は未見)。よく難解だという話は聞くので、やっぱり演劇的文法にほとんどの人が慣れていないせいなのではと勝手に予想。


しかし賛否の根源がどうであれ、この映画が難解なのには変わりません。で、個人的に思うところに、クリエイターはいったいどこまで観客のために親切に「翻訳作業」を行えばいいのか、というのは切実なテーマだと思いました。リンチの「イレイザーヘッド」のように、監督の頭の中に思い描かれた妄想を、全く翻訳せずにそのまんま映像化してしまうのか、ブラッカイマーが繰り出すように徹底的に楽しく判りやすく、エンターテインメントに徹するのか、そのせめぎ合いが難しい。私も最近MOD「Mistake Of Pythagoras」で、意味が分かりにくいと散々言われたばかりなので、この辺は結構苦悩するところ。
例えば稲妻モノリスは象徴的なもので、監督の中では漠然とした意味しか無いんだけど、やっぱり見ている人にとってはそこの部分が気になってしょうがない。私のMOPでも、「何で数字が降ってくるの?」って結構言われたのを思い出します。いやー、これって結局世界の法則が狂い始めているっていう事の象徴でしかないんですけどねえ・・。
でもこういった部分を完全に排除してしまったら、私が作る理由も意味も無くなってしまう。観客を楽しませてなんぼのエンターテインメントだ、と言われればそうなんですけど、その割に他者と全く同じものや、過去の作品を模倣した物を出すと「パクリだ」とか「独創性がない」とか非難されちゃうんだからどうしろってんだっていうか(笑)
いずれにしろ、マニアックな人間には毎度悩ましい問題です。

まあ監督には悪評にめげずにまた映画を撮って欲しいですね。今回がまだ処女作な訳だから色々学ぶものもあったはずで、これからだと思いますよ。初回でこのクオリティなんだから、これで完璧な物が出来たらちょっと恐ろしいです。個人的にはまたこういうぶっ飛んだ物を撮って欲しいんだけれども、まああんまり期待しないでおきましょうか(笑)。

なーんか長々と書いてきたけど、自分でも結局何が言いたいのか解らなくなってきたぞ(爆)。まあそんだけ書きたくなるだけの魅了する何かがあるって事なんでしょう。

問題の稲妻型モノリス。天を貫くようなこの
ショットはなかなか迫力があります。
私も初見では意味が解らずイラッとしましたが
時間が経つと面白くなってくるから困ったもの。
しかしなんかシナジーのロゴマークに見えて
仕方がありません(また超妄想)
死んだ者たちの意思が遙か遠くの惑星に届いて
あの例の稲妻になるラストカット。
ということは研究所に落ちた稲妻もどこかの
惑星の意思集合体?
宮崎、富野、庵野等、様々な先駆者に対する
オマージュのオンパレード。
でも監督曰く、日本人はどうもそういった
リスペクトの仕方に否定的。
まあ確かにねー・・・。でもこの作品に限っては
没個性的とは思えない訳だけど。

引用画像 - CASSHERN DVD ©2004CASSHERNパートナーズ


それともうひとつ感じたことは、映画は劇場で見るべきじゃないのかもな、ということ(爆)。かなり爆弾発言のように思えますが、これ、どういう事かというと結局劇場に見に行くということは、それなりのお金を払って見に行く訳だから相当に期待して見に行っているということ。でも過剰に期待する事は往々にしてマイナスにしかならない。やっぱりその物に対して必ず減算に働いてしまうので、今回私のようにTVで気楽に見たことでプラスに働いている可能性も否定出来ません。そういう気楽な見方が一番楽しく見れるハズなんですけどね。まー私はそうじゃなくても滅多に劇場なんかに足運ばないんですけど。
要するに、結局日本の映画の値段って高過ぎるんですよ。それもひとつの不幸なのかもしれません。

後、海外での評価はどうなのかってちょっと調べてみたら、おおむね大絶賛な意見が目立ち、ちょっとビックリ。もちろん否定的な意見もあり、そういう場合はもうほぼゼロに近い点数なんで、この辺の落差は日本と同じか。とは言え、日本でのウケの悪さに比べれば大貢献しているといえます。この海外との評価の温度差の意味を少しは考えないといけないのかもしれません。

とりあえずもう映画の批評とかお前らの言うことなんか信用しないぞ(笑)。まあ逆説的には私が言うことも全くアテにならん訳ですが。
「アンブレイカブル」の時も散々そう思ったのに、どうもウチは他人の顔を伺ってイカンですなあ・・・。


ちなみに、もっと詳しく知りたい方はちゃんとFAQサイトもあるのでご参考までに。