ジャック・ロンドンについて


ロンドンの生涯について『どん底の人びと』(辻井栄滋訳、社会思想社現代教養文庫)の「訳者あとがき」より
訳者の承諾を得て以下に引用する。


 ジャック・ロンドンは、1876年1月12日に私生児としてサンフランシスコに生まれた。父は、当時母フローラ・ウェルマン
と同棲していたW・H・チェイニイというアイルランド系の占星術家であった。ジャックが生まれて8ヶ月後に、母はジョン・
ロンドンと結婚した。一家はオークランド一帯を転々とし、サン・マテオやリヴァモアの農場でも暮らした。ジャックが10歳
の時にオークランドにもどり、彼も一家を支えるために、新聞配達やボウリング場のピン立ての仕事に従事した。この頃
から読書にも関心を持ちはじめる。13歳でコウル・グラマー・スクールを終えると、養父が負傷したこともあって、彼が
一家の大黒柱となり、缶詰め工場に勤めた。そのもっとも多感な少年時代に、一家は貧乏をきわめた。15歳の時には、
サンフランシスコ湾の牡蠣(かき)養殖場に出没する蜜魚群に身を投じた。かと思うと翌年には、これを取り締まる蜜魚
監視官代理を務めている。17歳になると、アザラシ狩りの船に乗り組み、半年間にわたって日本近海やシベリアの海を
行き来した。この間、小笠原諸島や横浜にも上陸し、はじめて日本と接触を持った。その後、黄麻工場や市街電車の
発電所に勤めるうちに、アザラシ狩りの体験を綴った文章を、サンフランシスコの新聞の懸賞文に応募したところ、一等
に入選した。この一件によって、彼は職業作家に向けての苦しい習作時代に突入することになった。

 18歳の時には、ワシントンまで請願行進をする失業者群に加わり、東部への放浪の旅に出ている。この旅のあと教育の
必要を痛感し、一念発起して高校に入るが、一年間で退学。独学で翌年の秋にカリフォルニア大学に入学した。しかし、
それも一学期で中退。翌1891年には、その後の作家生活に決定的な意味を与えることになるアラスカ・クロンダイク
地方のゴールド・ラッシュに加わった。16ヶ月にわたるこの貴重な体験は、実際の金(ゴールド)を掘りあてはしなかった
ものの、『野性の呼び声』や『白い牙』をはじめとする一連の<アラスカもの>の鉱脈となった。帰ってからも、食うや食
わずの生活にあえぎながら、原稿を出版社へ送っては送り返されるというくり返しに甘んじた。けれども、5年にわたる
蓄積の時代を経て、19世紀最後の1年間は、「凍結を旅する者のために」を皮切りに次から次へと短篇が雑誌に掲載
されはじめる。この1年間だけで10篇余りが日の目を見ている。そしてちょうど20世紀の幕が開くのを待っていたかの
ように、『狼の息子』と題する短篇集が処女出版されて、文壇にデビューした。ベシー・マダンと結婚したのも、この出版
当日のことであった。以後、仕事の上でも私生活の上でも数々の話題を提供し、一躍時代の寵児(ちょうじ)」となった。
翌1901年早々には長女ジョウンが誕生し、同3月にはオークランドの市長選に社会党から立候補している。

 さて、1902年7月の下旬に、APAから電報でボーア戦争の取材要請を受けたが、ニューヨークに着く前に、戦争指導者
たちが現地を引きあげたことがわかり、契約が解除になった。そこで彼は、英国へ渡って首都ロンドンの貧民窟に潜入し、
ルポを書くことに決めた。時あたかもエドワード7世の戴冠式という華麗この上ない一大イヴェントを目のあたりにしながら、
その対極をなす首都の恥部イースト・エンドに取材を兼ねて前後約7週間暮らした。この時の体験に豊富な資料や写真を
駆使して書きあげた迫力あふれるルポこそが、本書『どん底の人びと』である。二女ベスの誕生を知ったのは、この首都
潜入を終えたあとのことであった。

 1903年は、『野性の呼び声』や『どん底の人びと』などが出版されて、仕事の上では実りの多い年であったにもかかわらず、
私生活面では一大転機にさしかかっていた。もともと熱烈な愛ゆえに結婚したわけでもなかった妻ベシーと別居し、代わって
チャーミアン・キトリッジとの恋愛に入っていたのである。

 1904年には、日露戦争の取材で再来日している。きびしい足留めや訊問、カメラの没収、罰金、投獄を食いながらも、
横浜ー東京ー神戸ー長崎ー門司ー小倉ー下関ー釜山ー木浦ー群山ー仁川ー平壌ー安州ー義州ー鴨緑江と、他の記者連
を尻目に精力的に活動し、数多くの記事や写真を米国へ送りつづけ、好評を博した。

 1905年は多忙な一年であった。ロサンゼルスへの講演旅行、カリフォルニア大学での講演、オークランド市長選に再出馬、
全国大学学生社会主義協会の創立とともに初代会長に選出、サンフランシスコの北方約60キロのグレン・エレンに土地を
物色、購入、中西部および東部への講演旅行、そしてベシーからの離婚請求に最終判決がおりるや、その翌日11月19日
にチャーミアンと電撃結婚をして、各界から大きな非難を浴びた。

 1906年には、帆船による世界一周の旅を企て、船の建造にかかった。しかし、有名なサンフランシスコの大地震があったり
して延び延びになり、実際には翌1907年4月23日に、「スナーク」号という大枚をつぎこんだ帆船で出帆した。ハワイ
(半年間滞在)−マーケサス諸島ーツアモツ諸島ータヒチーボラボラ島ーフィージー諸島ーソロモン諸島まで来ると、熱帯地方
特有の水腫病にかかり、オーストラリアのシドニーの病院に入ったのが、翌年の11月半ばのことであった。結局、残りの航海
を断念せざるを得なくなった。シドニーで静養のあと、エクアドルやパナマを経て、1909年7月に帰国した。

 その後は、グレン・エレンの農園を拡充しながら農業に精を出した。1911年の6月から9月にかけては、妻チャーミアンと
オレゴン州への馬車旅行を敢行している。この頃から訪問客が絶えず、飲食も深まっていった。1913年頃には、世界で
もっとも原稿料を取る高名作家となっていた。しかし、農園の一角に3年越しに建設を進めていた「狼城」(ウルフハウス)と
いう大邸宅が、移転の前夜に何者かの放火によって炎上するという災難に見舞われる頃から、燃え盛っていた生命力に
陰りが見えはじめる。尿毒症、結石、リューマチといった病気に悩まされ、1915年と16年の2度にわたってハワイに長期
逗留を試みた。しかし、その効なく、1916年11月22日、グレン・エレンの農園の自室で、モルヒネの服毒自殺によって
その生涯を閉じた。享年わずかに40歳であった。