「ジャック・ロンドンの問いかけるもの」
              辻井栄滋(立命館大学教授・日本ジャック・ロンドン協会会長)

                
               

筆者の承諾を得て、以下に掲載する。 出典:「朝日21関西スクエア」2003.6 朝日新聞大阪本社発行


 このたび「朝日21関西スクエア」に入会させていただきました。私は、現代文明批評・自然環境問題を軸足にして、
アメリカ作家J・ロンドン(1876−1916)の研究を続けてきました。彼の代表作『野性の呼び声』を、次いで『白い牙』
を大学3〜4回生時に読んで、衝撃を受けて以来、はや38年の歳月が流れました。本格的に研究を始めてからで
ももう30年余りになります。読むこと・書くことで自らの問題意識を深め、また問題意識を持った仲間を増やす努力
も続けています。本会入会をご縁に多くの方から教え導かれることを期待しますとともに、私のほうからも時折、専門
にかかわる何がしらの発信をさせていただきたいと存じますので、どうぞよろしくお願いいたします。
 さて、J・ロンドンといえば、『野性の呼び声』と「『白牙』がすぐに思い浮かびます。皆様も多くの方がきっと一度は
お読みになっておいででしょう。『白牙』と書きましたが、従来は『白い牙』で通っていました。が、拙い最新訳(現代
教養文庫)では初めて『白牙』としました。狼犬の名前だからです。旧来の訳にとらわれない工夫として、注目され
ました。
 今回は紙幅の関係上、今なぜJ・ロンドンなのか?に絞って書いてみたいと思います。彼は、19世紀末〜20世紀
初頭にわずか40年の生涯を送り、その間に53冊もの著作を残しました。読む作品の数が増えるにつれ、上記の
ような従来の単なる「動物小説作家」といった評価や枠には収まりきらない、スケールの大きな作家であることを
実感するようになり、百年後の我々にも十分通用する作品が、相当数あることを知りました。論文執筆だけでなく、
非才を顧みず、翻訳にも挑戦し、これまで13冊を世に問い、幸い好評を得てきました。19世紀末〜20世紀初頭と
いう時代は、豊かさをもたらし、ひずみのもとを生み出した現代の源流ではなかったか。深刻化する環境問題や
豊かさの質が問い直されている今こそ、文明の自己矛盾を忘れないロンドンの訴えを再評価する時だとの思いで
活動を続けてきました。
 再評価したい現代的意義を今回は2点についてのみ見ておきたいと思います。まずは、動物文学をも含む極北
の地が舞台の作品群。たとえば、「焚き火」という短篇では、零下50〜60度の極寒の世界が迫真力豊かに展開
します。厳しい大自然と、そこに生きる人々や動物の姿は、きゃしゃな現代人への警鐘となっているだけではあり
ません。環境破壊や温暖化が重大視されるようになった今日、ロンドンが百年前に描きとった極北の姿は、人類
の生存のためには決して変えてはならない世界として我々に強烈なメッセージを送り続けているのです。
 もう1つは、社会の裏面や底辺に光をあてた作品群があることです。たとえば『アメリカ浮浪記』には、ホームレス、
失業、刑務所内の暴力問題等々、現代社会のひずみがすでに活写されており、今日の社会が百年前の現実と
何ら本質的に変わっていないことに気づかされます。社会の矛盾から目をそらし飽食に浮かれる現代日本人の
意識を見つめ直す機会を与えてくれるでしょう。
 文学がややもすると疎んじられている今日、文学とは「人が生きる」さまざまな生き方を想像力たくましく追体験
する営みであり、それによって視野を広げ、建設的な批判力を養い、人間が人間らしく生きていくうえで必要不可欠
のものであることを再認識することが強く求められているように思われます。とりわけ浮薄な今の日本の有りようを
見るとき、じっくりと想像力豊かに行間を追い、とりわけ古典といわれる作品の読み直しが求められています。優れた
作品は、何十年・何百年もの時を超えて、後世の人々の心を突き動かすものを持っているからです。(つじい・えいじ)