男も育児休職/1.出産に立ち会う

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好奇心は出鼻をくじかれる

実は出産というものを、この目で見たかった。こういうことを口に出すと変態扱いされかねないので妻の妊娠が分かるまで口には出さなかったのだが、そうなのである。男が立ち入ってはならない神聖にして侵すべからざる領域、人によっては、けがらわしいので近寄ってはならない領域なのだが、好奇心はいかんとも抑えがたい。いやしくも人間が生まれる瞬間である。どうして、それが男の目からは遠ざけられてきたのだろうか。何かマズイことでもあったのだろうか。

立ち会い分娩がけっこう増えてきて、女性から男性へ立ち会いを希望することが多くなった今でも「普通」の男はなんのかんのと言い逃れをしているようだ。たとえば先輩のOさんは「俺、血を見ると駄目なんだ」と言う。酔えばすぐに喧嘩を始め、血を見るぐらい日常茶飯事のOさんなのだが、こういう、かわいい言い逃れをするのである。またA君は真顔で「世の中には見てはいけないものもあると思う」と主張した。A君によれば出産の現場は男として立ち入ってはいけない場所なのだそうだ。この主張が、その場任せの言い逃れであった証拠は、A君が海外勤務先のアメリカで「世間の圧力に屈して」ラマーズ法の出産に立ち会ったことからも明白である。その後、この件に関して弁明したA君の顔にはタブーを犯した人間の悲愴さはなく、単なる照れ笑いがあるだけであった。

男が分娩に立ち会うのを嫌う理由は、女性の「あの部分」に関する神話が崩れてしまうからだという説がある。「あの部分」は男の人生の目的であり、男の突き進むべき象徴なのであり、女性にとっては女性の聖性の証しであり、存在理由の最後のよりどころなのであるから、「あの部分」がそれ以外の機能をあからさまに露呈することは許されない、とまあこういう説明だ。極端な話、分娩に立ち会うと男は不能になる可能性があるのだそうである。欧米諸国と日本における出産率の低下は立ち会い分娩の増加が原因だとでも言うのだろうか。この説がデマであることは数多くの分娩立ち会い者が証言するところであるし、産婦人科医だって子供は作っているのである。こういうデマさえ捏造して維持しようとする「あの部分」の神話性とは、いったい何なのだろうか。

「あの部分」に関する神話性の強さは確かに私も感じるところである。出産に立ち会おうと決めたとき、暗部に秘められたものをのぞき見しようとする好奇心が大きく働いたことは確かだ。これはタブーを前提とした好奇心だから、私も「あの部分」にまつわる神話とタブーの中に深く捕われているに違いない。

この好奇心を満足させると同時に、ものの見事に中性化したのが母親教室で上映されたナマの出産シーンだった。正直言って、これはショックだった。あれほど世の中で騒がれるヘアの露出なんていう甘っちょろいものではない。「あの部分」が大きく開かれ、その間から赤ん坊の頭が出てきて、顔が見え、助産婦さんが、よいしょよいしょと「あの部分」を手で押し広げながら肩を出し、やがて体全体がズルリと出てくる一部始終をスクリーン上で見ながら、私はこんなものを見てよいのだろうか、と自問し続けたものだ。もちろん、私の視線はスクリーンに釘づけだった。

あのフィルムには「あの部分」に関する神話性が一切はぎ取られた、生の「あの部分」があるだけだった。いや「あの部分」から神話性をはぎ取られたら、「あの部分」は「あの部分」ですらないのである。では「あの部分」でない「あの部分」とはいったい何なのか。単に「赤ん坊の出てくる穴」であろう。あのフィルムの目的は元来、妊婦に出産のプロセスを客観的に把握させることで妊婦の心のかまえをリラックスさせることにあるのだが、効果はそれにとどまらないようだ。私の下心は、ここで無残に中性化されたのである。出産に関する限り、私は「あの部分」など、どうでもよくなっていた。そうでなくてはならないのだ。「あの部分」にこだわったまま分娩に立ち会うのは危険である。人はそれを変態とよぶからだ。


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