男も育児休職/1.出産に立ち会う

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ラマーズ法をめぐる父親の曖昧さについて考える

立ち会い分娩だったと人に告げると、たいていはラマーズ法かと問い返されるほどに立ち会い=ラマーズ法という図式は定着している。私もまた「立ち会ったのならラマーズ法だよな」と友人から聞かれたものである。しかし、実はラマーズ法による分娩に立ち会ったのかどうかが私にはよく解らないのだ。

確かに分娩には立ち会った。妻と一緒に参加した母親教室ではラマーズ法の映画を見た。しかし病院側からは、ラマーズ法という言葉は一回も示されたことがなかった。母親教室の内容も特別なものではなかった。この病院では夫が立ち会わない分娩の方が多いのだが、そうした妊婦さんと一緒に私たちは母親教室を受けている。講義内容は夫が立ち会おうが立ち会わなかろうが変化はない。一体、どういう事情があるのだろう。私はラマーズ法について少し調べてみることにした。

ラマーズ法は夫の立ち会いがすべてというわけではない。呼吸法や事前の教育活動や、その他の色々な要素を含んだ、総合的な分娩方法だ。そして、それらの主要技法は夫の立合いと無関係に現在、日本の病院で行われているようだ。言い換えると、日本では「夫が分娩に立ち会わないラマーズ法」が行われているらしいのである。

たとえば、どこの母親教室でも教えるという分娩時の呼吸法というのがあって、ある決まったパターンの呼吸法に神経を集中すれば陣痛がやわらぐとしている。私が聞いた範囲ではほとんどの妊婦さんがこの呼吸法を使って出産しているのだが、調べてみると、この呼吸法は、れっきとしたラマーズ法に基づく呼吸法だった。そのほか、母親教室では分娩の進行を細かく教え、「この時期には陣痛が何分間隔になり、子宮口は何センチまで開きます、胎児が出てこられるのは十センチになってからです」などということを教えるが、これも分娩の進行を客観的に把握させるラマーズ法の考え方に基づいている。

むろん、現在でも陣痛促進剤などを使い「産む」よりも「産ませる」立場をとる産科はあり、「自然な分娩」を重んじるラマーズ法から見れば日本の現状はまだまだなのかもしれない。しかし、私が読んだ『初めての妊娠と出産』というような入門書をみる限りでは、日本においてもラマーズ法的な考え方は大流行のようで、そこには出産の過程を妊婦に詳しく教え、自然な分娩を重視する記事があふれていたのである。

ラマーズ法というのは旧ソビエトで生れた精神予防性無痛分娩法をもとにしている。これは、分娩前にある種のトレーニングを行なっておけば分娩が痛くなくなるというパブロフ流条件反射学派の開発した技法であった。この技法はフランスでラマーズ博士が体系化したことで、欧米各国に広がりラマーズ法の名前で知られるようになり、さらにアメリカ経由で六十年代から七十年代にかけて日本に「進歩的なお産の方法」として紹介された。これがラマーズ法の簡単な歴史である。だが話がそう単純にすまないのは、旧ソビエトから中国経由で日本に五十年代に導入されている精神予防性無痛分娩法というのもあり、これはこれで一つの体系を作っていたということだ。現在日本の妊婦さんが分娩室で行なっているラマーズ式呼吸法は何も最近になってアメリカからやってきたものではなく、かなり昔から旧ソビエト、中国、そして日本で行なわれてきた方式なのである。言ってみれば西回りにやってきたラマーズ法と東回りにやってきた精神予防性無痛分娩法が日本で出会っているわけである。

当時の資料が手に入らないので詳しいことは分からないが、アメリカ流のラマーズ法は日本への紹介当時、妙なバイアスをかけられて紹介されたみたいである。「ウーマン・リブ運動の一環とみられて白眼視された」こともあったらしい。とくに夫の立ち会いを強調したことがセンセーショナルな受け取られ方をした原因のようだ。

ところで、私はラマーズ博士自身によって書かれたラマーズ法の日本語訳教科書を読んでみたのだが、夫の立ち会いに関してラマーズ博士は何も言ってないのである。驚いたことに、ラマーズ法の出発点では夫の立ち会いは組込まれていなかったのだ。いつ、どこで夫の立ち会いがラマーズ法の重要事項になったのだろう? 現在のラマーズ法の中で夫の立ち会いがあれほどうるさく言われていることを考えると、たいへん不思議である。しかし、この発見でようやく私は、日本の産科が夫の立ち会いに冷淡だった理由が分かったような気がしたのである。

欧米では夫の立ち会いがラマーズ法の中で特権化された。しかし日本の産科の世界では夫の立ち会いをラマーズ法=精神性予防無痛分娩法の本質的な部分は、なかなか見なそうとしなかった。母親がリラックスして分娩に臨むというのがそもそもの趣旨だから、いやがる夫を無理やり連れてくるのはいかがなものか、母親のほうだってみっともない姿を夫に見られたくないと考える人だっている、だから夫の立ち会い分娩を日本で一般化する必要はない。少なくとも強制する必要はない。そういう考えのようだ。夫の立ち会いというのは男女の絆を神聖視する欧米社会の特殊事情に基づく一項だから、日本に取り入れる必要はないと判断されているらしい。人によって意見が異なることは言うまでもなく、さまざまな議論があるようだが一般的には夫の立ち会いは疑問視されてきたようだ。

そういえば、私たちがお世話になった病院はこの点で独自の立場をとっていたような気がする。たとえば私が受けた母親教室では、ラマーズ法の教材が使われながら、講師役の助産婦さんの口からは一度も「ラマーズ法」という言葉が聞かれなかった。ここでやっているのはこの病院の経験で育て上げてきた分娩方法なのだという自負があったのだろうか。また、立ち会い分娩は希望すれば婦長面接のうえで許可されたが、一般に「立ち会い分娩できます」とは公表されていなかった。夫婦の側から病院へ働きかけないかぎり「立ち会い分娩」という言葉は病院側からは出ないようになっている。立ち会い分娩をあえて制度化させていないのだ。

夫は何のために分娩に立ち会うのだろう。実のところ、分娩室の中で一番役割があいまいなのが、立ち会っている夫なのである。妻は分娩の当事者だから役割は疑いようがない。医者は技術的な責任者である。この医者の指揮のもとに助産婦さんたちが、おなかを押したり、出口を手で広げたり、医者の使う道具の準備をしたりして、いそがしく働いている。夫はというと、自分がいなくても分娩は進行するという冷たい事実をなんとか挽回すべく、妻の手を握っていっしょに呼吸法をやってみせたり、励ましたりするのだが(そうやれと、そのスジの本に書いてあるのである)、分娩室の中のほかの人々に比べ、もうひとつ存在理由が薄い。出産の解説書には夫が分娩に「参加」することによってスムーズな出産に寄与できると書かれている。さらに、この抽象的な記述を補うべく、具体的な行為としての、手を握るだとか、いっしょに呼吸法を行うだとか、呼吸法が乱れたら訂正してあげるだとか、おなかに手を当てるだとか、励ますだとかの参加行為が列挙されている。

しかし実際に立ち会てみれば分かるのだが、どれもこれも実に「弱い」のである。医者は出口を覗きこんだり、測定機を一瞥して判断を下して助産婦さんたちに指示を与えていて実にテキパキ働いているわけで、場合によったらメスで会陰切開だの、鉗子だの吸引器だのを持ち出して、立ち回りは派手であるし、助産婦さんたちの手慣れた各種の処理はほとんど芸といってもいいぐらいの美しさがあり、妻は人生最大級のドラマの真っ最中である。どうやっても夫は、これらの人に勝てないではないか。

この問題を儀式の導入で解決するやり方もある。アメリカで分娩に立ち会った友人のA君の体験談では、オギャアと生まれた直後、ハサミを渡されたのだそうだ。アメリカ合衆国の一般的なラマーズ法では、父親がへその緒を切るのだそうである。そうやって分娩時、基本的に出番のない父親に象徴的な役割を果たさせ、夫を出産に「参加」させるわけである。これは明らかに儀式だ。

日本ではどうか。「ただでさえ邪魔な、場合によったら血を見て動転している父親に刃物を持たせるなど論外、赤ん坊の上に落とされたらどうする」という意見が日本には根強いらしく、夫はまだまだ邪魔者扱いである。夫によるへその緒切りの儀式は日本では少数派だ。かくて夫は分娩室で限りなくあいまいな立場にい続け、医者と助産婦さんから、もっとも邪魔にならない妻の頭の横に立ち続ける。俺は何のためにここにいるのだろうか。「邪魔と判断された場合は即刻退場を命じられる」立場の中で、測定機が赤ん坊の心臓音を増幅して室内に響かせている中で、医者が神経を集中させている横で、助産婦さんがテキパキ働く横で、妻が必死でタオルをかじっている横で、考え続ける。それもいいのかもしれない。夫の立ち会いが、へたに儀式化されるよりは、苦痛でも横に突っ立っていれば父親の存在意義について考える機会にはなるのである。実際、私は考えたのである。何も結論は出なかったのだけれど。


〔参照文献〕

妻の妊娠中に私が読んでいたのが、日本赤十字社医療センター産科編著『はじめての妊娠と出産』永岡書店、ですが、このテの本は本屋にいっぱい置いてあります。

ラマーズ法に関しては以下の本を参照しました。小島信夫『精神予防性無痛分娩 新ラマーズ法図説』鳳鳴堂書店フェルナンド・ラマーズ『ラマーズ原著』鳳鳴堂書店藤田真一『お産革命』朝日文庫、三四六ページ以降三森孔子『すてきなラマーズ法お産』文化出版局


〔Web版注〕

その後、いろいろ聞くと「純正アメリカ流ラマーズ法」経験者も、その流儀を部分的に取り入れている産科も増加し、ハサミでへその緒を切ったという男も増えてきているようです。

また、分娩室でビデオを回したという父親も多くなってきました。この点、私達がお世話になった病院の産科は保守的で、「分娩室でビデオを回すなどもってのほかです」と婦長さんが宣告したのは前節で書いた通りです。さらに分娩台を使って身体を固定して産ませるというスタイルも旧スタイルに属するようで、姿勢は産婦の自由に任せるというスタイルも最近よく聞くようになりました。

ただ、この病院側には施設の制約から新しいスタイルにはすぐに移行できないという事情もあったようです。古い病院なので分娩室自体が狭いのです。医療器具のコードなどが這い回っているあのせせこましさの中でビデオカメラを持った父親がウロチョロするのは、医者も看護婦さんも迷惑かもしれません。また、産婦が自由な姿勢をとるにも、それなりのスペースが必要となります。

二人目の出産のときは、この病院で母子同室というのをやってみました。赤ん坊を新生児室に集めて看護婦さんがケアするというスタイルではなくて、出産直後から赤ん坊と母親を同じ部屋に置くというスタイルです。これも父親立ち会いと同様、一部の希望者に対して行われていました。なぜ一部だけなのかと言えば、その産科病棟がそもそも新生児の集中ケア方式用に設計されていて、新しい方式においそれと対応できないというのです。

新しい考え方はどんどん入ってくるけれど、設備がそれについて行けないということなのでしょう。しかし、CTスキャナーだとか高額の医療機器が絡むと病院の設備はあっという間に更新されるのです。よく言われている医療制度の歪んだ側面がこんなところにも出ているのかも知れません。

以上、長い付け足しでした。


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