男も育児休職/3.父親をする、育児に参加する

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名前を考える

生まれたからには名前をつけなくてはならない。男だったら太田太(おおたふとし)なんて名前はどうだろうか、下から読んでも同じだし、左右対称だし。こういう話を妊娠中にしたところ、妻は先行きに強い不安を抱いたらしい。名前のつけ方・姓名判断の本を買ってきて、これを読んで考えてほしいと私に申し渡した。私は迷信は信じない、と退けたのだが、冗談で名前をつけられるよりはよほどマシだと言っておしつけられた。こうした本では「太田」などというポピュラーな姓に対しては候補の名前がリストになってあげられている。それを参考にしてほしいと言う。

抵抗はあったが、もののついでだから私は姓名判断を勉強してみることにした。驚いたことに、私の名前は総画数二十二で大凶の名前であるという。中年以後、事故・病気で挫折するのだという。私は急に腹が立ってきた。人の人生を勝手に決めつけないでいただきたいのである。なぜ、こんなずさんな迷信に従って、子供の名前を決めなくてはならないのだろうか。

私の子供っぽい怒りに対して、妻は大人の態度をとった。「私だって信じないけど人から言われたら嫌でしょ」。私は一応怒りを収めた。実を言うと姓名判断の本に載っていた名前のリストは、おおいに参考になったのである。見ているだけでも名前のつけ方のパターンが分かってくるからだ。夫婦で考えた末に、今は忘れてしまった名前が用意された。

ところが、生まれてきたわが子の顔を見て、妻は「明らかにこれは違う」と言い出した。名前と顔がミスマッチだと言うのである。生まれて二日目の新生児のシワシワの顔を見ただけで、どうしてそういう断定ができるのか私には分からなかったが、用意されていた名前がいま一つ気に入らなかった私は、名前の白紙撤回に合意した。

数日して私は文語訳の聖書を引っ張り出してきた。出典つきの名前はどうかと思ったのである。出典をつけとけば、いかにも真面目に考えてつけた名前のようで、妻も納得してくれるだろう。たとえば私の妹は眞木という名前なのだが母親によればこれは、

「我は眞(まこと)の葡萄の樹」(ヨハネによる福音書一五章一節)

を出典とした名前だと言う。嘘か本当か知らないが、こういう出典つきで名前の由来を説明されると、由緒ありげではないか(ちなみに父親はそんな出典など考慮した覚えはないと主張している)。よし、この路線でいこう。文語訳は多少読みにくいが口語訳より漢字が多い。

というわけで私は妻の入院している産科の待合ロビーで聖書をめくっていた。すると隣にいた老夫人が話しかけてきた。「あの、それ聖書でございますわね、いえ私、○×教会の者ですけど、ああ、名前を考えてらっしゃる、いえ孫が生まれて今日退院でしてね、名前はまだなんですけど、私の弟は義也(ヨシヤ)とか偉策(イサク)なんて子供につけておりましたわねえ」云々。私は相槌を打っていただけであるが老夫人はしゃべり続け、おかげで三十分後、私は彼女の宗派や親族での聖書に基づく名前づけの例について、すっかり詳しくなってしまった。詳しくなったはいいが、これ以上キリスト教関係者に話しかけられるのをおそれて、私は聖書を鞄の中にしまいこんだのである。

結局、「有実(ゆみ)」という名前に決まった。妻は言う。「名前の由来を聞かれたら、『有理数の有に実数の実です』と答えられるわね。技術者仲間ならウケるわよ」。妻が私の冗談好きを責めるのは、不公平だと私は思う。


〔参照文献〕〔参考文献〕

私の名前を大凶数と決めつけた本をあげておこうとしたのだが、大人気ないことをするなと、妻に止められた。

聖書は、日本聖書協会『文語訳聖書』から。


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