男も育児休職/5.取材を受ける

もくじまえつぎ

取材を断る

新聞に記事が載ってしばらくしたころ、婦人問題のなんたらかんたらのシンポジウムをやるのでパネリストとして子供連れで出席願えませんかという、唐突な依頼電話が来た。明日だと言う。たぶん予定者が出られなくなったので代役を探しているのだろう。趣旨もろくすっぽ説明せずに、「出席できるか?」などと聞かれても困るのである。生後四カ月の子供を連れて都心まで来いなどと平然と要求するあたりの無神経さも気にさわる。当然断る。

先に取材を受けたテレビ局から別口番組の取材申し込みが電話で来た。「女性最前線」という特集番組。なぜ私が取材されなければならないのだろう。事前にファックスで送られてきた概要書を見ても、分からない。電話でも聞いてみたが、要は女性の社会進出に対比させて私の事例を見せようとしているのだ。女性が外で働くシーンを流した後で、私が家事・育児をやっているシーンを流す。何か釈然としない。別に私は女性のために育児休職した覚えはないのだ。自分の生活の中で必要と思ったことをやっているにすぎない。社会現象として皮相的に自分がとらえられていることに私は居心地が悪くなった。

私と担当ディレクター(男性)は電話で話し合ったが、ついに私を納得させるに足りる説明は聞けなかった。いい加減、取材にうんざりしてきた。私はこの日の朝にあったテレビ局の撮り足しの件を説明し、これ以上生活を乱したくないこと、ヤラセにもう付き合いたくないことを伝えた。さらに、女性問題の中に私の育児休職を位置づけるのは勝手だが、私にはそんな意図はまるっきりないことを伝え、一日考えさせてほしいと言って電話を切る。「男性最前線」というタイトルなら出てもいいです、ぐらい言ってやってもよかったかもしれない。赤ん坊がラックから私を見上げていた。私は何も知らない彼女に向かって「下らないね」と愚痴をこぼす。

後で帰ってきた妻と相談する。この「女性最前線」という番組では取材対象が妻と私の両方で、妻の仕事風景も撮りたいと言ってきている。しかし妻の職場は半導体工場のクリーンルームの中にあって、テレビカメラが入るのはエリザベス女王の寝室に潜りこむぐらいむずかしい(両方とも数少ない例外があることにはあるのだ)。会社の最高機密が部屋の中に集積していると言っていい場所だ、撮影は無理である。今までの取材でも妻の仕事風景を撮りたいという要請があったが、すべて本社のオフィスを借りてもっともらしくパソコンをたたいているのを撮影しただけだった。おかげで、会社の友人は私の妻がいつの間にか本社に転勤したと思い、私にわざわざ問い合せてきた。要はヤラセである。妻はこの下らないヤラセシーンしか撮れない取材なら最初から断りたいと思っている。なら、話は早い。翌日正式に断った。せいせいする。

過激な芸能人報道で有名な女性週刊誌からの取材申し込みもあった。会社を通さず、直接かかってきた。どこから私の自宅電話番号を嗅ぎつけてくるのだろう。先に述べた育時連の田尻さんと対談してくれないかとの申し込み。会社の広報室を通してくれと言って電話を切る。そしてすぐに広報室に電話して女性週刊誌からの申し込みは断ってくれと頼む。好奇心は働いたのだが、この女性週刊誌に記事が載ったときの電車の吊り広告を想像して断ることにしたのだ。「○×、40歳の熟愛」だとか「これなら大丈夫、彼に気に入ってもらえるSEX」だとか見ていてたいへん楽しい吊り広告なのではあるが……。

広報室の担当者が「これだけ受けてもらえばもう十分です」と言ってくれたのを機会に、私たちは取材をどんどん断るようになった。そもそも私は休職中、無給ではないか。私の所属する部の中では「太田−会社密約説」なるものが流れていたという。つまり私が広報素材として人寄せパンダになることと引き換えに、特例の育児休職を許可してもらったのではないかというのである。うーん、妙に説得力があるデマだなあ。また、「太田さんの今までの研究発表をまとめても、今回の一連の報道には及びませんねえ」と傷つくようなことを言う奴までいた。そう、これだけ取材を引き受ければもう十分である。

妻は妻で取材に対して思うところがあったらしい。夫婦別姓主義者の妻は、彼女の名前を記事に書くときは青砥という彼女の姓も記入してほしいと、ことあるごとに記者に対して要請していたのだが、七割以上の記者に無視されていた。ほとんどの記事で「妻の、なほみさんは……」といった書き方しかされないことが彼女には不満なのだ。姓がなくて名前だけで書かれることは、裸にされるみたいで気持ちが悪いと言う。自分の独立した人格を否定されているみたいでいやだと言う。

取材を断るようになって気が楽になった。雑誌なら下書きがファックスで送られてくるたびに、新聞の場合は現物を手に取って読むたびに私はハラハラし、何回かに一回は憂鬱になっていたからだ。憂鬱になる原因は何か微妙に私の発言意図が曲げられているような気がしたからである。答え方に問題があるのだろうか。気にしすぎるのだろうか。マスコミ報道なんてそんなものなのだろうか。

会社復帰後、部内の女性がこう言った。「テレビに出ていた太田さんは太田さんと違いましたね」 どういうことだろうか。私は説明を求めた。「あれじゃ、まるで単にいい人ですよ。子供思いで、奥さん思いで、真面目な人って感じ。太田さんじゃないですよ」 いいたいことを言ってくれるではないか。しかし、彼女は全面的に正しい。

マスコミにはマスコミの思惑がある。育児休職している男性を進歩的でトレンディと思った記者は、そういう筋書の中に私の談話をはめこもうとする。苛酷なサラリーマン社会から身を引いて人間らしく生きようとしていると思った記者はそういうイメージを私の上に重ねる。微妙に修正された私のイメージを私はいくつも引きずらなくてはならない。自分とは違うもうひとりの自分がいるような気がしたら、それは心理学的にも精神病理学的にも心の危機の兆候である。どうも私はマスコミ向きではないらしい。


もくじまえつぎ