男も育児休職/
6.主夫をする もくじ/まえ/つぎ6.主夫をする
主夫の一日を概観する
朝、耳元でクチャクチャ音がする。赤ん坊がはいずってきて、私の枕元に置いてあるかごから紙おむつ(もちろん未使用の)を引っ張りだし、しゃぶっているのである。あわてて目を覚まし、赤ん坊の世話が始まる。紙おむつをしゃぶっているときは、大便をしている可能性がたいへんに高い。試しに統計をとってみると、七回中五回は大便をしていた。この結果から、この現象には再現性があると断定してよいものか、やはり因果関係の立証が困難であるとして退けたものか、妻と私はしばらく討論してみた。はたして赤ん坊はおむつを替えてほしいという意思表示をしているのだろうか? 実を言うと、紙おむつをしゃぶっていなくったって朝は大便をしている可能性がたいへん高いのだ。しかし親の欲目はつい、赤ん坊が意思表示をしているのではないかと考えてしまう。本をしゃぶっているのを見れば本が好きな子供なのかしらと思い、ピアノの脚にしゃぶりついているのを見ると音楽が好きなのかと思い、母親の服をしゃぶっているのを見るとおしゃれな子供なのかと思う。
朝に私が起き出すころ、妻は早朝の授乳をすませ、すでに出勤している。布団をたたみ、赤ん坊を抱いて台所に行く。 膝に乗せたり、椅子に座らせたりしながらパンで朝食をとる。赤ん坊はテーブルの上のあらゆるものに興味を示す。マグカップに手を伸ばそうとするのでマグカップを遠ざけるとマーガリンに手を伸ばそうとし、マーガリンを遠ざけると以下、新聞、皿、フォークなど、すきあらば手を伸ばし、つかんで口に入れようとする。私は、それらを順々に遠ざけていく。赤ん坊はだんだん不機嫌になる。そろそろ授乳の時間だ。 私は自分の朝食を終わらせ、哺乳瓶に湯を入れる。それを冷まして、粉ミルクを溶かす。赤ん坊はミルクのできた哺乳瓶を見て「それだ、それだ」という仕草をする。乳首を近づけると、むしゃぶりついてミルクを飲み始める。身長も体重も順調に増えている。女児の平均よりもやや重く、ほぼ男児の平均値の重さである。首回りが太くなりすぎて、早くも着られなくなった服が出てきた。育児書にはミルクの与えすぎは肥満児を作るだけだから一回180ccぐらいにしておけと言う。うらめしげな目つきの娘をごまかしながら180ccでミルクを切り上げる。昔はもっとよこせと泣いたものだが、最近ではあきらめがつくようになったようだ。 パジャマを脱がして、体操の時間が始まる。晴れていれば窓際で日光浴をかねる。赤ん坊は裸になるのが好きだ。脱がすとはしゃぎ始める。四肢や胴体をマッサージする。また、へその回りをぐるぐるなでるようにして、腸を動かすようにする。便秘の予防だという。育児書にはけっこうおもしろいことが書いてある。たとえば足の裏の土踏まずの部分を指で押すと赤ん坊は足の指を曲げるのである。逆に足裏の外側の側面をナゼナゼすると曲げた指を伸ばすのである。赤ん坊の反射行動の一例でバビンスキー反射という。あまり役にたちそうとも思えないが、おもしろいので毎回やっている。手を支えてやり、「立っち」の練習をする。赤ん坊はこの練習も好きだ。一週間に一回は体重を計って増加量をチェックする。体重計はレンタルで借りることができる。ゼロ歳児の赤ん坊の成長具合を把握するのにたいへん役にたつ。うんうん、順調に体重は増えているぞ。 新しい服を着せてやり、しばらく遊ぶ。そうそう、洗濯機を回しておかなくては。赤ん坊が生まれてから洗濯の回数が増えた。毎日洗濯をしなければ追いつかないのである。当然、水道代も増えた。急に水量メーターが上がったのを不審に思い、水道局の職員が「子供でも生まれましたか?」と聞きに来た。確かに子供が生まれたのである。 洗い終えたら、ベランダに洗濯物を干さなくてはならない。赤ん坊は部屋の中からベランダの父の姿を見ている。今日は天気がいい。布団も干しておくべきであろう。花粉症の妻の布団は、この時期に外に干すことはご法度なので、私と赤ん坊の布団だけ干す。そのうちに赤ん坊は眠くなる。午前の昼寝の時間だ。 チャイムが鳴る。宅急便だろうか。いや宗教勧誘のおばさんであった。私は今、宗教どころではありません。子供を育てている真っ最中なのです。 子供が寝息をたてている。父親はパソコンのスイッチを入れる。うまくいけば二時間、悪くして三十分間、仕事の時間だ。急いでモデムを使って会社のコンピュータに接続する。電子メールが何通か来ている。「テレビを見ましたよ」などという手紙に交じって仕事上の問い合せが来ている。ええと、あの書類はどこにあったのだっけ。そうだ、これはN君に探してもらおう。N君あての手紙を書き、発信する。さて、次は電子掲示板を読む。オフィスの引っ越しがあるので、新しい部屋のレイアウトについてみんなが議論している。引っ越しの際にうっかりすると俺の席のことをみんなで忘れてしまうかもしれない。一言口を挟んでおこう。M君が論文を探している。その論文なら、俺のキャビネに入れてある。手紙を書いておこう。そうこうしているうちに、赤ん坊がもぞもぞ始める。ああ、一時間も寝てくれなかった。最近どんどん午前中の昼寝時間が短くなっている。まとまった仕事などできやしない。 急いでミルクを作る。飲ませて、おむつを交換して、さあ、散歩の時間だ。今日はどこに行こうか。ベビーカーを押して、駅のほうまで行ってみようと思う。本屋に寄ってみたいからだ。途中、公園にも寄ればいいだろう。公園でベンチに腰かけ赤ん坊を抱いて話しかける。あたりをキョロキョロ見ている。膝に抱いたままブランコに乗る。機嫌がいいとキャアキャア喜んでくれる。駅前で夕食の買物をして帰る。 赤ん坊は散歩から帰るころには疲れて再び寝てしまっている。遅い昼食を作って食べ、離乳食を大急ぎで作っておく。おかゆはベビーフードでごまかしてしまおう。野菜は……にんじんをすりおろそうか。それに白身魚があるからこれを煮てすりつぶそう。よし、まだ寝ている。大急ぎで仕事の紙束を取ってきてめくり始める。 三時ごろ、目を覚ました赤ん坊を座らせて離乳食の時間が始まる。なかなか食べてくれない。ミルクを飲ませてから遊ばせる。機嫌よく一人で遊んでいれば本ぐらい読めそうな気がするが、なかなかどうして赤ん坊は、そういう大人の勝手を許してくれないのである。夕方ごろまで赤ん坊の相手をする。 しまった、五時だ。全面的に家事モードに入らなければならない。大急ぎで洗濯物をたたみ始める。家の中を片付け、夕食を作り始める。冷蔵庫の中を一瞥して、メインの蛋白源料理を一品、妻の要望で野菜料理を二品、そして味噌汁の具をどうするかを決める。結婚してから私の料理のスピードはかなり速くなったが、最近さらに速くなったようだ。メニューを決めると手順を考えるより先に、手が鍋を用意するようになった。 さて、夕方ごろ赤ん坊は一般的に機嫌が悪くなる。親に放っておかれれば、なおさらである。ときどきかまってご機嫌うかがいをする。夕食の下ごしらえができたところで風呂をわかさなくてはならないことを思い出す。風呂をわかし、妻と私の着替えを用意する。日も暮れ始めた。布団を敷き、雨戸も閉める。 七時だ。妻が帰ってくる。妻はせめて風呂に入れる仕事は担当したいと言う。妻が風呂に入り、風呂場での準備が整うと、私は赤ん坊の体温を計る。36.5度、平熱である。服を脱がして風呂場で待つ妻に赤ん坊を手渡す。妻は歌を聞かせながら、赤ん坊を風呂に入れる。最近の歌はもっぱら「足柄山の金太郎」か「桃太郎」である。赤ん坊の体形を見ると、つい口ずさんでしまうのだそうだ。私はタオルを持って外で待つ。やがて、ホカホカの湯気をたてて赤ん坊が風呂場から出てくるから、タオルで包んでやる。身体を拭いてやる。新生児時代は風呂が嫌いだった赤ん坊は、最近風呂が大好きだ。目を丸く見開いて、満足げにこちらを見ている。おしりがかぶれていないかをチェックする。かぶれていれば、薬を塗る。パジャマを着せてその日最後の授乳をする。 ミルクを飲んで眠たくなったようだ。寝室に連れていく。しばらくもぞもぞしているが、やがて寝入る。親は台所で夕食。妻は会社のこと、私は育児のことを話す。終わって皿を洗うと九時を回っている。妻は朝が早い。お茶を飲みながら新聞を読み、一通り会話をして十時ごろ寝室に行く。 さあて。ようやく、自分の時間だ。育児日記を書いた後、緊急の仕事さえなければ家事も育児も仕事も忘れて本を読み始める。十二時か一時ごろ就寝。妻は寝息をたてている。子供の寝息は小さすぎて聞こえない。耳を子供の顔に寄せて小さな寝息を確認する。 |