男も育児休職/6.主夫をする

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赤ん坊と付き合う(3)

私は元来、子供が好きだ。これは多分生得的なもので遺伝レベルで決定されたもののようだ。そして、多かれ少なかれ哺乳動物は子供が好きなようにできていると生物学者は明言している。ぬいぐるみ人形が模倣するように、体の割に頭が大きくて丸く、手足は小さく、目が大きくて、より小さいあごをもった幼児体形や幼児の顔つきは、我々哺乳類にとっては無条件に「かわいい」と感じさせる要因なのだ。そういうものを見ているだけで我々は、心の中で何か温かいものを感じ、ああかわいいなあと思うようにプログラムされているのである。そうでなければ哺乳類は絶滅してしまうのだ。われわれは赤ん坊をかわいがり、守ってあげたくなるようにできているのだ。

子供をかわいがることを、偽善めいた行為として拒否する人もいる。気持ちは分からないでもないが、生物学的なプログラムをむげに抑圧しても無駄なような気がする。私は子供ぎらいを明言していた先輩のFさんを思い出す。Fさんは結婚当初、子供は何人ほしいですかと聞かれて「俺は子供が嫌いだ。うるさいのがちょこまか走り回っているのを見ると、殴りつけたくなってくる」と答えたものだ。ところが、Fさんの奥さんが子供を産んだとたん、Fさんは豹変したのである。「子供ってかわいいぜ」とFさんは臆面もなく会社で言ってのけた。芝生の上で子供と二人でにこやかに笑っているFさんの写真の姿は幸せそのものであった。我々の脳に書きこまれたプログラムの絶大な効果に私は舌を巻いた。

私の妻もまた、子供嫌いを宣言していた人間だったが、甥っ子が生まれたとたん、宗旨を変えた。食卓で妻はたびたび、甥っ子の話題を持ち出すようになった。そしていかに、私たちの甥っ子がかわいいかを彼女は分析してみせた。私は彼女の話を聞いて「別にあの甥っ子が特別にかわいいわけじゃないよ、単に君のアタマの中に仕組まれていた愛児プログラムが発動しはじめただけだよ」と答えようとしたが、黙っていることにした。妻が、子供はかわいいということに目覚めたのなら、それはそれでけっこうなことだからだ。そして、しばらくして妻は子供を自分でも作ろうという気を起こしたのである。

やがて自分の子供を産むと、妻はさらに変わった。子供はかわいいうえに、おもしろいということにも気づいたのである。今日はどういう変化があったか、妻は夕食の食卓で嬉々として私に逐一報告してくれた。赤ん坊の一挙一動が克明に育児日記に記された。ある日帰宅すると、妻はガラガラを赤ん坊の頭の周りで鳴らしながら、反応を観察していたところだった。妻によれば音への反応はいま一つだが、赤い色に対する反応が顕著に認められると言う。やがて、教えたわけでもないのに、赤ん坊は背を反らして寝返りを打とうとし始めた。私と妻は計測を始め、八割の確率で右側に寝返りを打とうとすることを確認した。妻も私も育児に名を借りて、この新しいペットの観察に夢中になった。

親にプログラムが発動するなら、子供のほうのプログラムも発動し、二つのプログラムは相互作用を起こす。赤ん坊はだれに教えられるわけでもなく、大人に向かってほほえみ、愛想を振りまく。天使のほほえみとも形容される赤ん坊のこのほほえみは遺伝的に弱くできている親の理性を吹き飛ばす。思わず子供を抱きしめたくなる衝動が親を突き動かす。理性の働きが停止し、本能で反応するのだから、この段階で親はケダモノの状態で子供と接することになる。男が公衆の面前で子供をかわいがることに躊躇し、照れを見せる理由が、ようやく私に分かったような気がした。子供をかわいがるという行為は非理性的行為なのだ。女性の場合とは違って男性の場合は愛児行動が文化的に確立していないので、その非理性的側面がよく見えてしまうのだろう。

子供をかわいがるというこの野蛮な行為を、いかに理性的な行動の枠の中におさめるかが、だから親の課題になる。無理に感情を抑圧する気は私にはないが、感情を丸出しにしてもみっともないだけである。父親業も存外にむずかしい。


〔参考文献〕

コンラート・ローレンツ『動物行動学』思索社 、スティーヴン・J・グールド『パンダの親指』早川書房。
なお、私は幼児体形に対して人間が示す愛情を上記文献に従って生得的なものという説をとっていますが反対の学説もあるようです。


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