男も育児休職/8.会社へ復帰する

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ミシンを使う

保育園の入園通知によれば十日後に健康診断を受け、入園説明を聞かなくてはならない。さらに、その一週間後に保母さんによる面接があり、さらに一週間後の四月一日が入園式と言う手はずだ。

健康診断と入園説明会には当然ながら休職中の私が行くことになった。会場は母親が子供を連れてきているのがほとんどで、父親と母親の二人で来ているのも数例あるが、父親一人で子供をかかえているのは私だけだった。健康診断は問題なくパスし、説明をノートに取り、かつ子供をあやしながら聞く。園の運営方針やいろいろな規則の話が終わり、準備品の話になった。衣類や持物にはすべて名前を書くか名札を縫いつけなくてはならない。雑巾、シーツ、毛布カバー、コップを入れる袋なども作らなくてはならない。そして、衣類はなるべくならボタンをはずしてスナップにしてほしいとのこと。スナップなら将来、子供に自分で着替えさせるのに都合がいいからだと言う。

さあ、どうしようか。私はボタン付けだとか簡単なつくろい物なら自分ですることができる。しかし一枚の布切れから布団カバーを作るだとか、巾着袋を作るだとかという課題は小学校の家庭科の時間以来やったことも考えたこともない。小学校では確かにそういったことをやったらしい。それが証拠には、私がそのとき作った洋服カバーなるしろものが確かに実家の洋服タンスの中に今も残って機能しているからだ。しかし現在三十歳を超えた私には当時十一歳の少年がどうやってそれを作ったのか全然記憶がないのである。そこには約二十年間の空白期間がある。いきなり布団カバーを作ってくれと言われても何をどうすればいいのか私は途方に暮れるばかりだった。ある日、いきなり牛の横に連れていかれて「乳を搾ってください」と言われるようなものである。乳を搾れば乳が出ることは頭で分かっていても、どこを握って、どう搾ればいいのか具体的なイメージはまったくわかないのだ。

話をすると、妻がミシンを出してきた。実務主義者の妻は何一つ躊躇することなくテキパキと仕事を始めていた。押入から布団カバーにできる布を選び出し、物差で計測し裁断し、アイロンで折目を付け、ミシンをセッティングすると布を縫い始める。私はしばらく、その手際に見とれていた。

子供が生まれるまで私の知らなかった妻の特技が裁縫であった。すでに産休・育児休職中、妻は赤ん坊のために、ベビー・キャリー(赤ん坊を入れるかごのこと)の装飾、赤ん坊用の布団カバー一式、赤ん坊のおくるみなどを次々と生産し、台所から出てくる廃物を利用してガラガラなどのオモチャを自作した。おしゃぶり人形なるものがタオルの布地で作られ、ウサギやらヒヨコやらの小さな人形が赤ん坊のベットに添えられた。研究者としての妻は、ただ作るだけではなく、改良にも熱心だった。試行錯誤の結果、ガラガラの中身は大豆三粒とボタン二個、ビーズ玉数粒という配分で作ると音がいいのだと結論づけた。また、赤ん坊が人形などのタグに、つまり綿一〇〇 だとか台湾製だとかが書かれた小さな布に興味を集中させ、さかんに口でしゃぶっているのを妻は見て、すでに作られていたタオル地のボールを改造し始めた。何の変哲もなかったボールに、小さな布や、リボンや、紐をいっぱい縫いつけたのである。大人の目から見ると実に不気味なボールができ上がったが、妻の思惑どおり赤ん坊はこれを見て狂喜した。しゃぶるところがいっぱいあるからだ。

話がそれた。とにかく妻は今回もテキパキと裁縫を始めた。私はその手際に見とれていたが、急にそれが「自分の仕事」であることを思い出した。現在、妻は会社で仕事をしているのだ。保育園の準備はどう考えても育児休職中の私の仕事に違いない。ミシンの使い方に関して、私は妻に教えを請い、慣れぬ手つきで布団カバーの作成を始めた。糸を矢印に沿ってミシンに掛け、布を当ててスイッチを入れるとミシンが動き出す。下糸が切れれば、所定の操作で下糸を巻きつける。さらに「まつり縫い」なる縫い方を教わり、名札を服に手で縫いつけていったのだった。最初は腹が立つくらいに作業は遅々として進まなかったが、私は根気よく針仕事を続けていた。

子供が寝静まった春の夜長、私たち夫婦は二人で針仕事をしながら娘の保育園生 活に関して語り合った。ちょうど昔の家族の風景で女性たちが針仕事をしながら世間話をしたように。針仕事というのは会話をしながらするのに適した仕事なのである。


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