指揮:高関健
1:J・ケージ「74」(1992)
2:G・ロッシーニ「歌劇”セビリアの理髪師”序曲」(1816)
3:I・ストラヴィンスキー「バレエ音楽”カルタ遊び”」(1936)
4:L・V・ベートーヴェン「交響曲第5番ハ短調 op.67」(1808)
何かセビリアの理髪師と運命が並んでたらごくフツウの通俗名曲コンサートなんですが、
さすが高関さんはそんな事をせず頭と最初に20世紀の作品を入れてダレないようにしてあります(^^;)
最初の
ケージ
の曲。タイトルの由来は演奏者の数というシンプルさ。
急逝する5ヶ月前の本当に晩年の作品。
駄菓子菓子!!
90年代、多くの現代作曲家が調正回帰というか、前衛実験まっしぐら路線を止めて
”感動を呼ぶ聴き易い音楽”に走っていたというのにも関わらず
相変わらず挑戦的
な実験音楽だったり(^^;)
しかし、同じ音程のロングトーンが延々続く曲なので聴き易いといえば聴き易いな(^^;)
楽譜には数個の音が記されていて、奏者は一定時間の間その音を気持ちの赴くまま演奏して良いと言うモノ。
当然指揮者は要らず、楽譜には指揮台に時計を置け、という指示があるそうな(^^;)
今回は大時計が用意できなかったという事でストップウォッチを持った高関さんが指揮台合図してたり(笑)
だから一定の時間同じ音をロングトーンする者や刻む者、弦はピチカートにしたり、音を出さない楽器もあったりと、
いわゆる音色旋律(音列で旋律を作るのではなく音色の濃淡を旋律とする)ですかいな?(´Д`;)
なんとゆーか、思い切り東洋思想というか、もう雅楽か声明を聴いてる気分でしたよ日本人としては。
西洋人の耳にはかなり異質に響くのかな??(^^;)
禅に傾倒していた東洋かぶれの氏の曲らしいってゆえばらしい曲。
ちなみに偶然性の音楽(ミュージック・コンクレート)のため、この曲の演奏は唯一無二。
二度としてまるっきり同じ演奏は行われません。
なので生で聴けるのは非常に貴重かと(^^)
ステージ前に高関氏もゆってましたが「これは果たして音楽なのか?」という問題提起でもある、と。
結局「
師
よりも過激な音楽の破壊者」と言われた
ケージ
は晩年になっても過激でちた。(・∀・)/イイ!!
二曲目のロッシーニ。ただの箸休めだと思っていたら…。
三曲目のストラヴィンスキー。この曲の最後にセビリアの理髪師と運命の引用があるのねん(^^;)
高関さん、小西康陽にそっくりなだけあってやることがフェチだゼ(関係ねぇー(´Д`;))
前衛音楽の始祖とも言われる「春の祭典」後、新古典主義時代に作られた曲だけあって、
メロディラインはちゃんとあるしホント古典作品を聴いているよう(^^;)
ただ良く聴くと激しいポリリズムだわ多調正だわ、無茶苦茶ストラヴィンスキーしてる(笑)
演奏は難しそう…。
四曲目。恐らく会場にいる多くのヒトがそれ目当てであろう運命。
こちらはデザートのつもりで鑑賞してみる。
もう冒頭から快速、超特急(・∀・)/イイ!!
ギンギンに飛ばして一気にフィナーレまで。いや盛り上がりましたわ(笑)
やっぱ高関氏の選曲と解釈とはシビレますにゃ〜〜(´Д`)
さいこう〜〜〜〜(・∀・)/イイ!!