●本稿は『家庭科教育』(家政教育社),2004年11月号掲載原稿を加筆(緑色文字表記など)・修正したものです. ※Web上の「生命」関係ニュース
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生命を考える家庭科

本間善夫(県立新潟女子短期大学生活科学科生活科学専攻)
《 2004/10/21掲載:適宜更新 》


1. 生体分子から考える生命
 2004年6月1日,担当科目「教職総合演習」では教育実習に出る直前の生活科学専攻と英文学科の学生に,NHK高校講座・家庭総合「生命をはぐくむ」(5月27日放映)のビデオを見てもらった。講師の南野忠晴先生もアナウンサーも男性で,自らの子育て体験も交え,胎内の赤ちゃんの映像,高校生や赤ちゃんが生まれたばかりの両親へのインタビュー,傷害のある子どもが生まれた両親の前向きな姿勢など,子どもを産み育てるすばらしさや責任の重さが存分に示されている番組を見てもらうことは,教育実習で中学生に接するときに役立つのではと考えたからでもある。
 最後に学生に感想を書いてもらって帰途についたその車の中で,佐世保の小6女児殺害事件のニュースを耳にし,そのような番組を見たばかりでもあって衝撃はとても大きなものであった。
 子どもたちの手による悲惨な事件が度々起き,その都度人間の脳の持つ暗闇に思いを致す。佐世保の事件では,ネット利用についても話題になっているが,インターネット自体,人間の脳の中身を全部ぶちまけたようなものであるから,考えようによっては何が出てきても驚くには当たらず,そのようなことを踏まえて使いこなしていく発想が求められるのだろう。ネットに限らず日々のテレビのニュースを見ても,子どもたちにふさわしい情報を伝えていくのは至難の技と言える。昔だったら背が伸びなければ届かないはずの棚の上のものが,今の時代は乳幼児の時代から当人の好むと好まざるとに関わらず簡単に手に入ってしまい,脳で消化不良を起こしているようなものである。
 一方,社会全体で子どもを温かく見守り育てていくというシステムが弱体化し,家族や地域のあり方が問い直されている中,当たり前と思われていた「命の大切さ」についても,文化の変化の激しい現代社会においてどのようにして伝えていくことができるのか,新しい視座が求められているようにも見える*1,*2。多くの大学で死生学(1)のような科目を開講するようになっているのも,その流れと考えられる。

2. インターネットのその後
 教育の場におけるインターネット利用について述べた本誌既報(2)から4年経ち,インターネットの普及と高速化が進んだほか,携帯電話やブログが日常的なツールになったりデジタル放送が始まるなどなど,時間的にも経済的にも生活の中での情報通信の位置付けは高まる一方である。
 筆者サイト(3)でも,携帯電話版のコンテンツ作成に取り組んだり(4)BSESARS鳥インフルエンザHIVとエイズ等の時事的な話題も随時取り上げるなど,速報性を活かす取り組みを継続している。
 関係サイトとのメールのやり取りや相互リンク,シックスクールの患者さんのご家族からの掲載情報に対する御礼のメールなど,多数の利用者にインタラクティブな情報を提供できる上に双方向性を築けるメリットを最大限に感じている。
 世界的にもSARS禍においては,原因ウイルスの特定やその遺伝子配列解読,構成タンパク質立体構造解明など,インターネットによって世界中の研究者が協力し合って対応したことは画期的なことであった(5)
 これらの例から見ても,ネットは生体維持に欠かせない神経系に相当する存在となっており,決して他の存在を脅かすものに貶めてはならない。そのためには良貨が悪貨を駆逐するような不断の努力や弱者への配慮が不可欠である。
 それは,生物の細胞が常に「生きろ」という信号を他から受け取る必要があるという知見(6)を考え合わせれば,一層明白である。
 さらに,SARS関連生体分子やBSEのプリオンタンパク質に限らず,生体分子に関する構造等のデータベースが以前から多数構築されており(7),お互いが有機的に結び付けられている。これもまた,多くの生体分子が有機的な連携プレーで生命活動を維持していることのアナロジーとみなすことも可能だろう。ワトソンとクリックがDNAの2重らせん構造を解き明かしてからちょうど50年目にヒトゲノムの解読が完了し,現在はタンパク質の構造と機能の解明とその相互作用を探るプロテオーム,プロテオミクス研究が盛んに進められようになった。まさにこれは「私たちはどこから来たのか」を知ろうとしてきた人間の永い問いの延長上にある,自然科学の方向からの最新の営みの一つであり,それはまた「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いに対する解答の一つに迫るものであると信じたい。
 1997年のユネスコ総会で採択された「ヒトゲノムと人権に関する世界宣言」(8)には,「何人も,その遺伝的特徴の如何を問わず,その尊厳と人権を尊重される権利を有する」という条文がある。遺伝子は1人1人,あるいは1個体1個体異なる貴重な財産であってお互いに優劣はないし,人は生命活動を開始するような形でそれを作り出すことはできない。
 もちろん,生物種間で食う食われるの関係があるなど必ずしも友好的な共生関係ばかりではないが,それとて大部分は地球上生物がみな同じルールで生きていて生体分子の再生利用が可能であることから派生するものであって(図1参照),再生に結びつかない無用な殺生・殺戮は避けるのが生を受けたものの礼儀と言える。

図1 生物世界のルールを維持する代表的な生体分子;DNA,タンパク質,リン脂質,グルコース,ATP.
http://www.ecosci.jp/s/bm_all.html生体分子のかたちの不思議も参照).

 以上のように生命科学の視点から生命尊重に言及した書籍も増えてきており,例えば医学生が書いた『遺伝子の宿題』には以下のような記述がある(9)

 遺伝子の意味,生命の意味を模索し,過去にどこから来たのか,これからどのように生きていくのかということを科学により知ることはとても大切なことです。生活習慣病などは,つきつめて言えば人間を取りまく環境に対して人間の遺伝子が対応できなくなり,悲鳴をあげている状態だと言えますし,民族紛争や,病気への偏見の問題は,人間は遺伝子の前に平等であるという現実を前にすれば,今までよりもはるかに建設的な議論ができるのではないでしょうか。
 筆者サイトでは,インターネットの通信速度の向上を背景に,容量の大きい生体分子データを利用した教材コンテンツも公開し始め(10),立体モデルを自由に動かしたり表示形式を変えたりしながらその面白さを学べるようにしている。図2に表示画面例を示したが,体内で多数の分子が協力しながら自分自身を支えてくれているのを知ることには大きな意味があるだろう。

図2 エストロゲン受容体タンパク質の表示例;PDBデータ1ereの17β-エストラジオール(空間充填モデル)と受容サイト部分(球棒モデル).
http://www.ecosci.jp/pdb/pdb_site.htmlCASTpデータで見るエストロゲン受容体も参照).

 なお,ベストセラーとなった村上龍さんの『13歳のハローワーク』最終章「明日のための予習」で取り上げられている3つの分野は,IT・環境・バイオとなっていることも書き添えておきたい。

3. 生活者の学び
 冒頭の南野さんは,直木賞作家の重松清さんが編集した『教育とはなんだ』(11)の中で家庭科教員として対談しており,「妊娠・出産・育児」と保健で扱う「愛と性」のことにも触れているほか,以下のような発言もある。

 僕は自分に言い聞かせていることがあるんです。英語や数学は,「正解はこれだよ」「このやり方がいちばん正しい」「これがいちばんいい方法」というようなことを教える要素があるんですが,家庭科というのは「自分はどう生きるか」を考える教科なんです。だから,いろいろな考え方ややり方の紹介はするけれど,「どれが正しい」とか「こうじゃなきゃいけない」ということだけは言わないでおこう,と決めているんです。
 家庭科は「自分はどう生きるか」を広い視点で考えていく教科であって欲しいと私自身も強く思う。そのことは,インタビュー後の重松さんのまとめにも色濃く出ている。
 取材の終わりに,半ば軽口,それでもちょっと本音を込めて,「家庭科が文部科学省に軽視されているのは,『家庭科』という名前にも原因があるんじゃないですか?」と訊いてみた。
 南野さんは「僕はよく“生活哲学”と呼ぶんですけどね」と言う。
 生活の哲学。いや,生活者の哲学,と解釈しようか。
 哲学のための哲学でなく,まさに生活者の哲学が必要な時代になっている気がする。
 なお,重松さんは,長崎男児誘拐殺人事件を受けて組まれた総合雑誌の特集『12歳の殺人者』に,「父よ! 12歳の子をもって 被害者の親にも加害者の親にもなりうる時代に」という一文を寄せている(12)
 ところで生活者という表現は,鶴田敦子さんの『家庭科が狙われている 検定不合格の裏に』(13)にも出てくる。
 以上述べてきたように,「生活者」の学びには,生活の安定と,生命の健康と安全を優先する政策を国家に対して求め,発言する「市民」の学習があります。このよう学習こそが,真の「生きる力」を育むのではないでしょうか。
 同書では,1996年の検定で家庭科教科書4点が不合格であったことについても詳しく論じているが,南野さんも前掲書の中で,
 ただ,教科書づくりなどにかかわっていると,たとえば環境問題に深入りしないように,と歯止めがかかってしまいます。
と発言している。
 筆者も平成15年度からの高等学校指導要領で新設された「理科総合A」の教科書作成に参加し,環境問題を取り上げた口絵写真について指摘を受けた経験がある。理科分野の教科書検定については,『どうして,理科を学ぶの?』に収録されている大木勇人さんの分析(14)の中にも,
 地球環境問題の話題は非常に限定した範囲でしか扱えない。
という一節がある。
 ただし,環境問題については,平成15年度の『科学技術白書』(15)で,初めて科学・技術の負の遺産に触れ,第3章は「社会とのコミュニケーションのあり方」になっているなど(これは鶴田さんの「発言する市民」と呼応),教育の場でも今後は前向きになっていくことを期待したい。
 なお,「社会とのコミュニケーションのあり方」については,「科学・技術と社会(STS)」という研究分野があって研究会や学会が立ち上がっているが(16),家庭科にとっても関わりが深い分野と捉えている。
 続いて教育という視点で,冒頭の事件とも関連して,『教育「真」論』(17)の中の以下の一文に注目したい。
 第1回目のシンポジウムのタイトルは,「子どもたちをめぐる事件と犯罪」でした。長崎の4歳の子どもを殺した12歳の少年の話や,渋谷で勧誘されて赤坂で監禁されていた少女たちの話がもちきりだったのが,2003年の10月ごろです。これらの事件から見えてくるものを一つの切り口として,ほかにシンポジストたちがおもちになった材料なども寄せ集めながら,子どもたちが置かれている「現状」を理解し,さらに「背景」を分析し,「処方箋」まで出すという話だったわけです。
 話は多岐にわたりましたが,キーワードは「退却」だったと思います。一つは,「みなさんが社会だと思っているもの」からの「退却」。「みなさんが社会だと思っているもの」とは「日本的に学校化された社会」であり,いい学校・いい会杜・いい人生という「レギュラーな人生コース」だったり,お父さんやお母さんがイメージしてきたような「幸せな暮らし」だったりします。そうしたものからの「退却」が進んでいます。「みなさんが社会だと思っているもの=学校的な諸事物」からの「退却」。これを僕は「第4空間化」と呼んでいます。そうした現象が少なくとも25年前から生じてきています。これは,援助交際やクスリなどの「非行系の逸脱」の背景要因だと考えられます。これらとは別に,不登校や学力低下といった,今日おそらく話に出るような問題ともかかわるでしょう。
 この連続シンポジウム記録は多くの示唆に富んでいるが,上記キーワード「退却」からは,佐藤学さんの『「学び」から逃走する子どもたち』(18)を思い出させられる。
 世界中の紛争地域などでの「学び」に対する飢餓感と較べ,飽食感や虚無感のようなものがあるのだろうかと考えてしまう(もちろん真摯な学びを続けている子どもたちも多数いるのだけれど)。「人はなぜ学ぶのだろうか」という問いは,「生命はなぜ誕生したのだろうか」という問いとは切り離せないだろう。
 学びに不可欠な好奇心を取り戻すためにも,生命科学分野に限らず多くの学問分野の最新の成果を子どもたちが興味をもてる形で伝える一方,社会との関わり合いを常に意識してもらう努力が求められているのだと考えている。




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